安藤信正(1819~1871)とは、幕末に活躍した大名である。
陸奥磐城平藩主で、幕末の老中として阿部正弘→堀田正睦→井伊直弼のリレーの次に来て、坂下門外の変で失脚した人でおなじみ。
徳川家譜代の安藤氏の傍流(嫡流は紀伊藩の附家老)で磐城平藩主・安藤信由と大河内松平信明の娘との間に生まれる。幼名は欽之進、欽之介。
弘化4年(1847年)に家督を継ぎ、奏者番、寺社奉行、若年寄などを歴任する。井伊直弼の懐刀の一人として活躍し、安政6年(1859年)には水戸藩邸に赴いて「戊午の密勅」の返納を求めるなどの圧力を加えてた。
そして安政7年(1860年)に老中に昇進。外国御用取扱となって、井伊直弼亡き後に久世広周と共に幕政の中心となり、久世・安藤政権を築いた。外交手腕は高く、ポルトガル・プロイセンとの通商条約締結や、ヒュースケン暗殺事件、英国仮公使館東禅寺襲撃事件、ポサドニック号対馬滞泊事件などを処理していった。また小笠原諸島の領有権を主張し、開拓を進めたのも彼である。
内政においては14代征夷大将軍徳川家茂への皇妹和宮の降嫁を実現させ、財政再建にも手腕を発揮した。しかし、このような外国との協調路線、井伊直弼を引き継いだ国持大名の幕政参加に批判的な立場は、尊王攘夷派の反感を呼び、文久2年(1862年)に坂下門外の変で負傷。登城するも島津久光などに止められ老中を退いた。
さらに、その後隠居、急度慎、ついには永蟄居にまで至り、幕政からは排除される。慶応2年(1866年)に赦免されたのもつかの間、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わって敗北。再び永蟄居を命じられ、明治2年(1869年)にようやく許されることとなった。
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最終更新:2025/04/08(火) 18:00
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