霜月騒動で壊滅した安達氏の生き残りだが、復権中に幕府そのものが滅亡してしまった人。父親は安達宗顕、母親は結城重光の娘。
生年は不明だが、幼少期に幕府の内ゲバで家が滅んだ結果、とてつもなく不憫な身の上となった。のだが、親の仇である平頼綱が討ち滅ぼされたころに彼が何をしていたのかは全くの不明であり、徳治元年(1306年)2月にはもう幕府の使者となっている。彼が上洛していたのは、ちょうど久明親王の廃位に絡んだ案件であり、既に幕府の有力者と化していたのである。
延慶2年(1309年)には既に幕府の最高権力機関である寄合衆の構成員と化した。『保暦間記』に北条貞時が長崎円喜と彼に後を託したとされるが、いくらなんでも長崎円喜に比べて若輩すぎるため、後世のもろもろが訴求された遜色とされる。
とはいえ、正和5年(1316年)の時点では、本当に長崎円喜と彼が、北条高時政権の両雄となっている。その権力は、北条一門ばかりが鳴る引付衆の頭人のうち、五番に彼がなっていることからもわかる。娘二人の内片方は二階堂行直に、片方は北条高時に嫁ぎ、かつての北条氏外戚の地位に舞い戻っていたのである。この原因は、北条貞時の母親も妻も、結局は安達氏だったからとも。
ただし、実のところ、かつての仇、平頼綱の縁戚・長崎円喜との協調によって、幕府は運営され、彼の地位もそれゆえだった。そして鎌倉幕府滅亡の日、彼は主君とともに腹を切ったのであった。
なお、安達時顕の娘と北条高時の間に子供がいたのかいないのか、全く分からない。というのも、この女性は儀礼関係の文書にしか出てこないからである。
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最終更新:2025/12/09(火) 16:00
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