宮城野・信夫の仇討(みやぎの・しのぶのあだうち)とは、史実を元にした江戸時代の仇討伝の総称である。
浄瑠璃、歌舞伎を始めとして神楽、狂言、浮世絵、貸本と媒体を選ばず、民衆の間で大流行を巻き起こした。
その物語は孝女の範として日本全国へ広まり、北は青森の津軽じょんがら節から、南は沖縄の組踊「姉妹敵討(しまいてぃうち)」まで伝播の過程で様々な芸能に変化している。
奥州白石の逆戸村に住む百姓・与太郎とその娘・満千(まち)、園(その)の二人姉妹は、病弱な母・小夜を抱えながらもつつましく幸せに暮らしていた。
1636年(寛永13年7月)のある日、親娘三人で田んぼの草取りに励んでいたところに八幡へ参詣する数人の侍が通りかかった。
妹・園が何気なくむしり取った草を放つと、折悪く後ろにいた侍の袴へ泥がはねてしまう。
この侍は片倉小十郎重長の家臣・志賀団七といい、短気で有名な嫌われ者であった。
烈火のごとく怒りだした団七は、「幼子のしたことですから」と平謝りする与太郎を袈裟斬りに斬り捨ててしまった。
与太郎は翻って田んぼの中を逃げ惑ったが、やがて力尽き泥の中へ沈んでいった。
姉妹は泣き叫んで父の名を呼びながら引き揚げようとしたが、幼子の細腕では如何ともしがたく、団七が白刃を持って迫りくるのを見て一目散に村へと逃げ帰った。
事の次第を知った母・小夜はいよいよ病が重くなり、その晩に命を落としてしまう。
村の衆の協力により両親の葬儀は無事終わったが、残された姉妹は泣いて日々を過ごすほかなかった。
しばらくのちにこれを憐れんだ名主が世話を申し出たところ、姉妹は「仇討のために武芸の達者な方へ教えを乞いたいのです」と言い、身辺整理の取次を依頼した。
名主のおかげで田んぼを売って路銀を得た姉妹は奥州の近場で武芸を学んでは団七の耳に入るやもしれぬと思い、一路江戸へと旅立つ。
江戸に着いた姉妹が武芸者の評判を聞いて回ると、皆が口をそろえて由井正雪が軍学兵法の名人であると言うので、これこそ我らが師と頼むべき人だろうと心に定め、さっそくその門を叩いた。
無事対面がかなった二人は涙ながらに身の上を語り「下女奉公からでかまいませんのでどうかこの道場に置いてください」と必死に頼み込んだ。
それを聞いた正雪は「よし、三年の内に天晴仇を討てるようにしてやろう」と言い、故郷の名を取って姉を宮城野、妹を信夫と改めた。
正雪の妻も姉妹を実の娘のように慈しみ、修行の合間を縫って女のたしなみをねんごろに教えた。
姉妹は三年ののちも辛抱を重ねて五年の修練を積み、姉は鎖鎌、妹は薙刀の達人となる。
二人の腕前を見た正雪は「この上は一日も早く仇討を成就すべし」と帰郷の許可を出し、妻からは仇討の正装である白い着物を餞別として贈った。さらには旅路の供添えとして門弟三人までつけてくれた。
姉妹は夫妻の厚い心遣いに感謝して白石へ旅立って行った。
白石城下に入った一行は城へ仇討の申し入れをし、片倉重長から目通りを許された。
重長は「かねてから団七の蛮行は耳にしていたが、裁きを下す機を逸してしまっていた。ここに武士も及ばぬ姉妹の心がけを認め、お上への申し上げを取りはかろう」と約束する。
重長からの報告を聞いた仙台公も姉妹に同情し、すぐに江戸幕府へお伺いを立てて裁可を取り付けた。
そして白石川の河川敷に矢来を組み、ここを決戦の場と定めた。
1640年(寛永17年2月)片倉家の立会150人と見物人1000人が見守る中、ついに因縁を断つ時を迎える。
まず妹・信夫が薙刀を構えて「かかる因縁は私より出でたもの、いざ尋常にお相手つかまつるべし」と高らかに宣言し、二合三合と打ち合った。
次に交替の陣太鼓が鳴るや姉・宮城野が躍り出て鎖鎌の分銅を飛ばす。
はじめは難なく打ち払っていた団七も、ついには疲れ果て宮城野に腕を絡め取られた。
姉妹は「いまこそ父母の無念を晴らしたまえ」と叫び、信夫が薙刀で団七の腕を落とす。続いて宮城野が鎌の刃で首を落とした。見事に仇討が達せられ、観衆は二人に大喝采を浴びせた。
こだまする歓声の中、しばらく放心していた姉妹は突如刃を翻し自刃しようとする。
慌てて止めに入った片倉家の役人がわけを聞くと、「いかに仇討といえどもお武家さまを手にかけた罪は消えません。どうか如何ようにも御成敗下さいますよう」と泣き出した。
この言を聞いて感じ入らない者はいなかった。それぞれが思い思いに称賛やねぎらいの言葉を発し、なんとか自害を思いとどまらせようとした。
姉妹は髪を下して仏道に入ることを決意し、ようやく落着となった。
その後、宮城野は慶化尼、信夫は慶融尼と名を変えて念仏三昧の日々を過ごしていく。
のちに由井正雪が大逆の罪によって処断されるとその首を貰い受けて駿府の弥勒寺に庵を結び、生涯をかけて菩提を弔ったという。
姉は64歳、妹は62歳で同地に没した。
語り継がれる媒体によって宮城野が遊女に落ちていたり、あるいは登場人物の名前、地名、年月日の数字に差異があるが、だいたいの骨子は上記のとおりである。
反体制の象徴である由井正雪が重要人物に据えられ、百姓の娘が武芸で侍をやっつけ仇討を果たすという二重三重のカタルシスが江戸時代の世情に合致して一大ムーブメントを巻き起こし、民衆文化として日本全国に浸透した。
ご当地白石では奥州白石噺の名称がつけられている。
薙刀の刃と鎖鎌、与太郎の田んぼや家の戸板、二尼を祀った孝子堂、仇討碑、姉妹の子孫を称する家など多くの史跡・物品がごく近代まで伝わっており、現在それらの多くは観光名所として案内されている。
次の項では原案となった史実を記載する。
仇討の仔細が世に発せられた最古の証しは、本島知辰(もとじま ちしん/ともたつ)が著した「月堂見聞集」巻之十五、享保8年4月(1723年)の次の項にある。
仙台より写し来たる敵討の事と題しておおよそ以下のように書き記している。
享保3年(1718年)、松平陸奥守様(伊達吉村)の御家老・片倉小十郎殿(片倉村定)が知行の内、足立村に四郎左衛門という百姓がいた。
小十郎殿の剣術師範に田辺志摩という1000石取りの侍がおり、領地検分の供回りをしていたところ、四郎衛門が前を横切ったとして無礼討ちにした。
この時残された娘二人は姉11歳、妹8歳であり、領内を退居して陸奥守様の剣術師範である瀧本伝八郎へ奉公することになった。
姉妹は6年もの間密かに剣術の稽古を盗み見て覚え、修練を積んだ。
ある時下女の女部屋から木刀を振る音が聞こえ、不審に思った伝八郎が戸を開けると姉妹が稽古をしている姿を目撃した。
わけを聞くと姉妹は仇討を志していると言い、感心した伝八郎は正式に稽古をつけて秘伝の技を教え込んだ。
寸志を遂げさせようと事の次第を陸奥守様へ伝えたところ、白鳥大明神の宮の前へ矢来を組んで享保8年(1723年)3月に勝負することを仰せ付けられた。
仙台御家中衆が警固検分を務める中、姉妹は数刻に渡って打ち合い、二人が替る替る戦って程なく志摩を袈裟切りに斬り付けた。最後は姉が走り寄って止めをさした。
陸奥守様は御機嫌斜めならず、姉妹を家中の者へ養女に迎えるよう申し付けたところ、二人は共に辞退した。
その上「仇とは言え人殺しの罪は逃れられず、願わくば如何ようとも御仕置きを仰せ付けられ下されますよう」と申し上げたので、なお以って皆は感心した。
そこへ伝八郎がやってきて姉妹に向かい、わたしも一時とは言え二人の主人であり、また剣術指南を恩と思うならばこの意は受けなくてはなりませんと心細やかに諭されたので、姉妹は翻意してお殿様の御意向に従った。
姉は当年16歳で御家老3万石の伊達安房殿(伊達村成)へ、妹は同13歳で大小路権九郎殿へ引き取られた。
権九郎殿は陸奥守様より妹が負った手傷の養生を仰せ付けられた。
ただし結びの部分は「実否の義は存ぜず候(ホントかどうかは知らない)」としてある。
本島知辰がどこで執筆したかは定かでないが、1723年の時点でこの仇討伝が仙台藩の外へ出たことは間違いない。
上記のように至極簡素な「史実」と、さまざまな尾ひれのついた「あらすじ」で、何故こうも乖離が起きたのか。
その原因は江戸幕府が当代に起きた出来事の演劇・出版化を固く禁じていたことにある。
※政権批判や国家転覆を煽動することになりかねないため。
よって当時の演出家たちは時代や人名を脚色し、法の目を潜って興行に結びつけた。
つまり江戸時代の芸能は、直近の史実を題材にしたものであれば大幅な改変が必須条件だったのである。
最後に、後世の研究家によっていかにこの姉妹が由井正雪と結び付いたかが明かされているので略記しておく。
1729年(享保14年2月)に尼御台由井濱出(あまみだいゆいのはまで)と題して浄瑠璃が興行される。
1759年(宝暦9年9月)太平記菊水之巻、浄瑠璃。
そして1780年(安永9年1月)碁太平記白石噺、浄瑠璃。
ここで七段「揚屋」が脚光を浴び、以後は仇討の部分のみが単独上演されるほど好評を博す。
揚屋…吉原の太夫となっていた宮城野が、かどわかされて連れられてきた田舎娘の信夫を郷里の訛りから生き別れの妹と見抜く。作中に色気を加味する筋である。
1795年(寛政7年)上方で歌舞伎・姉妹達大礎(あねいもうとだてのおおきど)が興行される。
これ以降は主題が姉妹に置かれ、孝女の誉れとして日本中に伝わって行った。
琉球で組踊が上演されたのは1808年(文化5年)とされる。
これにより、主題は由井正雪の方が先で、脚色を重ねていくうちにだんだん姉妹の方へ移っていったことが分かる。
つまり、あらすじの項目に記した現存する史跡・物品の内、史実のものはほとんどないことになる。
この点をあげつらって単なる創作であると斬り捨てる研究家も散見されるが、それは無粋と言えよう。
宮城野・信夫の仇討は民衆文化として現在まで伝承され続けてきた。
アニメの聖地巡りをして楽しむ現代人と同じように、300年前の人たちも楽しんでこの物語を紡いできたのである。
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