家長昭博 単語

17件

イエナガアキヒロ

7.5千文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

家長昭博(いえなが あきひろ、1986年6月13日 - )とは、日本プロサッカー選手である。
J1リーグ川崎フロンターレに所属。元サッカー日本代表

2018年にはJリーグ最優秀選手賞を受賞している。

173cm73kg。ポジションはFW、MF。利き足は左足。通称「アキ」。

概要

プロ入り前

京都府長岡京市出身。小学校1年生の頃かに長岡京サッカースポーツ少年団に入団し、すでに「天才少年」としてその名は知れ渡るようになっていた。

中学生になるとガンバ大阪ジュニアユースへ入団。この頃のチームメイトには本田圭佑や東口順昭がいた。ここでもその実は飛び抜けていたと言われており、ガンバ大阪の将来を担うスター補として関係者から期待されていた。15歳以下によるオールスター戦ともいえるメニコンカップでは西軍の10番を背負い、当時ガンバ大阪下部組織最高の逸材とまで評された。当時の家長について、本田も「アキは別格」と言わしめたほど、

高校生となった2002年に後にW杯メンバーにも選ばれた本田と東口が昇格できなかったのに対し、当然のようにガンバ大阪ユースへと昇格。1年生ながらもチームエースとして活躍し、この年のJユースカップ優勝に貢献。高校2年生になる頃には二種登録の選手としてトップチームに昇格する。

2004年6月26日には、J1 1stステージ第15節アルビレックス新潟戦でJリーグでのデビューを果たすと、この試合で初ゴールを決める。二種登録の選手がデビュー戦初ゴールを決めるのはJリーグ史上初の快挙だった。

ガンバ大阪

2004年7月には、高校3年生ながらガンバ大阪プロ契約を結び、正式にプロサッカー選手となる。その後も公式戦13試合に出場している。

2005年からは背番号が「14」に変更。攻撃的なスタイルを標榜するチームにおいて、おもに左ウイングバックで起用されることが多かった。攻撃タレントえていたチームの中、ワールドユース出場のための離脱期間もあったが、コンスタントに出場機会を増やしていき、シーズン終盤にはレギュラーに定着するようになる。結果、チームは創設以来初となるJ1リーグ優勝に貢献する。

2006年は出場試合数こそ28試合と伸びたが、遠藤保仁二川孝広フェルナンジーニョといったタレントえた中盤の中では役になることができず、運動量の少なさや守備時の貢献度の低さを摘するも出るようになっていた。8月5日おこなわれたA3チャンピオンズカップ、蔚山現代戦で精を欠いて前半40分で交代させられたうえ、ふてくされて勝手にバスに戻ってしまうという事件を起こす。この行為が西野朗監督逆鱗に触れ、出場機会が減するようになる。この頃から西野監督との確執が囁かれるようになる。

背番号が「8」に変更となった2007年西野監督からの信頼は得られず、サテライト行きを命じられた時期もあった。練習試合でも前半15分で交代させられたこともあり、ポテンシャルを発揮できないままだった。

大分トリニータ

2008年、出場機会をめて大分トリニータへの期限付き移籍を決意する。環境を変えて新たなスタートを切ろうとした矢先、2月練習中に右膝十字靭帯損傷の重傷を負い、全治まで6カとなる。ようやく新地でデビューしたのは9月27日J1第27節横浜F・マリノス戦となった。しかし、離脱中に台頭した生の存在もあってシャムスカ監督からの信頼を得られず、出場はわずか4試合に終わる。
この年のオフにはイングランド2部のプリマスFC練習に参加し、移籍をすものの、労働許可が降りず、断念することになる。

2009年レンタル期間を1年延長し、引き続き大分プレーすることになる。シーズン序盤は引き続き控えという立ち位置だったが、チームに怪人が続出したこともあってレギュラーとしてプレーする機会が増える。シャムスカ監督が解任され、ポゼッションを重視するランコポポヴィッチ監督が就任するととして重用され、左WGやボランチとしてプレー。後半戦巻き返したチームにあって活躍するが、前半戦大きく負け越したことがき、J2降格となる。

セレッソ大阪

2010年1月8日、この年J1へ復帰したセレッソ大阪への期限付き移籍が発表される。4月頃にレネ・クルピ監督が2列にアタッカー3人を並べるシステムに変更すると、レギュラーとして起用される。香川真司ドルトムントへ移籍したが、乾貴士清武弘嗣と共にそのを十分に補う活躍を見せ、チームも終盤まで優勝争いに食い込むほどの躍進を遂げる。ここまで挫折が続いていたが、プロ入り以来最高といっていいシーズンを過ごし、31試合4得点10アシストという成績を残してACL出場権獲得に貢献する。

マジョルカ

2010年12月16日、保有元のガンバ大阪からスペインラ・リーガのRCDマジルカへの全移籍が発表される。EU外国人の関係で加入から登録されるまでに1カがかかったが、2011年2月になって「AKI」という登録名で出場可となり、2月5日ラ・リーガ第22節オサスナ戦で念願の海外デビューを果たす。その後もスーパーサブという立場ながらコンスタントに出場機会が与えられ、4月9日セビージャFC戦でリーガゴール記録4月24日のヘタフェ戦でもゴールを決め、スペインでの1年は14試合2得点とまずまずの成績を残す。

しかし、2シーズンとなった2011-2012シーズンが開幕間もない9月家長を信頼していたミカエル・ラウドルップ監督フロントとの確執で退任してしまう。後任のホアキン・カパロス監督は守備重視の哲学の持ちということもあって構想外となり、前半戦を終えてわずか4試合の出場にとどまる。

蔚山現代

2012年2月、出場機会をめ、韓国Kリーグの蔚山現代FCへ1年間の期限付き移籍で加入。このときの登録名は「」(アキ)。しかし、ここでも12試合1得点立った活躍を見せることができなかった。

ガンバ大阪

2012年7月30日、古巣であるガンバ大阪への期限付き移籍が発表される。背番号は後に代名詞的な番号となる「41」。5年ぶりに復帰した古巣は深刻な不調に陥っており、起爆剤として期待されたなかで12試合5得点と奮闘するが、低迷するチームを救うには至らず、G大阪はまさかのJ2降格となる。

2013年レンタル期間を半年だけ延長し、初めてJ2プレーすることになる。後半戦に入って宇佐美貴史が復帰したこともあってさらなる契約延長はなされず、契約期間満了により6月で退団する。

マジョルカ

2013年7月、セグンダ・ディビジオンに降格となった保有先のマジルカへ復帰。だが、チームからの構想からは外れており、前半戦で7試合に出場したのみとなった。

大宮アルディージャ

2014年1月15日J1リーグ大宮アルディージャ全移籍で加入することが発表される。大宮では2トップの一セカンドトップ)やトップ下が戦場となり、攻撃の中心としての役割を任される。3月15日J1第3節川崎フロンターレ戦で移籍後初ゴールを決めると、期待通りの働きを見せる。しかし、家長の奮闘も虚しく、チームは勝てない試合が続き、大きく低迷。シーズン中盤以降はゲームキャプテンを任され、孤軍奮闘を見せるも状況は変わらず、チームは最終節でJ2降格が決定する。

2015年は他のJ1チームからオファーを受けたものの、大宮に残留しJ2で戦うことを選択する。ポゼッション重視のスタイルを掲げる渋谷監督から攻撃の全権を任される信頼を受ける。前線と2列リンクさせる役割だけでなく、フィニッシャーとしての役割を果たし、これまで以上にゴール数が増える。J2第28節の愛媛FC戦でスポンサー看板を蹴って2試合の出場停止を受けることがあったが、6月7月に2か連続でMVPに選ばれるなど、躍動。J2第41節の大分トリニータ戦では、同点ゴールとなるPKを決め、1年でのJ1復帰をもたらす。自身のキャリア初となる二桁ゴールも記載し、充実の1年となった。

J1復帰となった2016年も攻撃の中心として君臨。チームJ1仕様で堅守速攻にを切ったスタイルとなったが、江坂任と共に攻撃を牽引する。シーズン中盤以降に怪で離脱したが、2シーズン連続での二桁ゴール記録。ちなみに大宮日本人選手がJ1で二桁ゴールを決めたのは初めてのことだった。最終的に26試合に出場し11ゴール5アシストという成績を残し、J1復帰1年クラブ史上最高順位となる5位と躍進を遂げた最大の立役者とされた。いつしか、「大宮王様」と呼ばれるほど、絶大な存在感を発揮し、家長がいるかいないかでチームの戦い方が全く変わってしまうほどだった。

川崎フロンターレ

2017年1月5日J1リーグ川崎フロンターレへの全移籍が発表される。大宮で絶対的な地位を築いていたものの、「30歳を迎えてさらなる挑戦がしたかった」ことから新地での挑戦を選んだ。開幕当初は怪で出遅れたものの、頃には右サイドハーフとして定着してチームフィットするようになり、攻撃に違いを作り出す存在として存在感を見せるようになる。2位で迎えたJ1最終節の大宮戦では、ハットトリックを決めた小林ゴールの2ゴールアシストする活躍を見せ、大逆転でのJ1リーグ優勝に貢献。

2018年は開幕から好調を維持し、前年を上回るハイパフォーマンスを披露。2列でタメを作ったり、緩急をつけたドリブルで切れ込み、左足から繰り出す正確なパスとシュートで決定的な仕事を遂行する。川崎のバンディエラである中村憲剛に「苦しい時、突破口を切り開くのはアキの左足」と言わしめる程、チームにとっての重要な存在となっていた。優勝争いにおいて重要となった第30節から第32節では3試合連続ゴールの活躍を見せ、川崎J1連覇に大きく貢献。6ゴール7アシストという数字以上の貢献度が評価され、2018年Jリーグ最優秀選手賞とベストイレブンを受賞。十代の頃から天才と称された逸材が挫折を経験しながらも32歳でJリーグの頂点に立った間となった。

2019年フル稼働した前年の疲れが出たのかコンディションが悪く、出場時間も減ってしまう。10月26日ルヴァンカップ決勝では、北海道コンサドーレ札幌との死闘を120分間戦い抜き、PK戦では5人として成功させ、移籍後3度タイトル獲得となる。しかし、シーズンを通してはJ1リーグノーゴールに終わり、不本意なシーズンとなった。

2020年は、前年と違って本来のきを取り戻し、前年ノーゴールに終わったのがのようにコンスタントゴールを決める。4-3-3の右ウイング定位置となり、逆サイドウイング三笘薫が頭を現すと、右サイド家長キープによってタメを作り、左の三笘のアイソレーションで切り崩す攻撃パターン確立され、この年の川崎記録的な圧倒的強さを見せて首位を独走。11月25日J1第29節古巣のG大阪戦ではハットトリックを達成して5-0の大勝に貢献し、川崎の史上最速となるJ1優勝決定をもたらす。このとき滅多に感情を表に出さない家長が「今日が終わらないでくれ」とるほど、歓喜に浸っていた。この年のゴール数も大宮時代の2016年以来となる11ゴール記録し、2度となるJリーグベストイレブンに選出される。また、この年の天皇杯決勝でもフル出場し、二冠を経験している。

2021年も引き続き川崎に欠かせない選手として活躍。2月26日J1開幕戦横浜F・マリノス戦で2ゴールの活躍を見せる好スタートを切る。三笘薫田中碧海外へ移籍したことでチームは再編成を余儀なくされ、ACLに敗退。自身も過密日程のでコンディションを崩しスタメンを外れた時期もあったが、高い技術を活かしたチャンスメイクチームを引っり、最年長35歳として相変わらず頼れる存在となり、川崎を連覇に導く。これで川崎に加入して5年で4度のリーグ制覇を成し遂げたことになる。Jリーグアウォーズでは2年連続3度となるベストイレブンに選出。

2022年チーム最年長ながらも右ウイングの位置で高い技術を発揮し、苦戦の続くチームを牽引する。6月18日J1第17節コンサドーレ札幌戦では2ゴールの活躍を見せる。場になるとさらに調子をあげるようになり、特に8月の4試合では2ゴール3アシストの大活躍を見せ、最優秀選手に選出される。9月10日J1第29節サンフレッチェ広島戦では、2ゴールを決め、Jリーグでは中山雅史記録を上回る36歳での日本人選手最年長での二桁得点記録する。結局あと一歩でリーグ三連覇は逃したものの、12ゴール7アシストというキャリアハイの成績を残し、リーグでも飛び抜けた存在感を発揮。3年連続でJリーグベストイレブンにも選出されている。

2023年オフ期間のトレーニング中に左足を負傷するも開幕には間に合う。J1通算400試合の出場となった2月25日J1第2節鹿島アントラーズ戦では、試合終了間際のPKのチャンスで失敗するも相手のPA内への侵入行為によって蹴り直しとなり、今度は確実に決めて逆転勝利に貢献する。だが、不調のチームに呼応するかのように調子が上がらず、4月1日J1第6節札幌戦から11月28日ACLグループI第5節ジョホール戦まで公式戦で241日間ゴールから遠ざかっていた。本人も悔しさを口にしており、リーグ戦では2ゴール4アシストと物足りない数字に終わる。

日本代表

U-20日本代表として2005年オランダで開催されたFIFAワールドユース選手権2005に出場。G大阪ジュニアユース時代の同僚だった本田と一緒にプレーすることになったが、チームの中心は平山相太だった。左アウトサイドとして出場したが、2分1敗でグループリーグを突破したものの、ベスト16でモロッコに敗戦。1勝もできず、世界との差を痛感する大会となった。

2007年3月には、イビチャ・オシム監督からフル代表に選出され、3月27日ペルーとの善試合でデビューを果たす。その後は2005年ワールドユースを戦ったメンバーが中心となる北京五輪代表(U-22代表)での活動が中心となり、2次予選のときはとしてプレーする。しかし、最終予選になるとG大阪で出場機会が減っていたこともあり、徐々に序列が下がり、終盤にはメンバーに選ばれなくもなる。2008年2月に負傷したことで長期欠場が続き、北京オリンピック出場メンバーから外れてしまう。

2011年6月におよそ4年ぶりに日本代表に復帰し、アルベルト・ザッケローニ監督からはボランチとして遠藤保仁バックアップを期待される。しかし、代表に定着することができずこの年の8月10日韓国戦を最後に日本代表に呼ばれてはいない。

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
2004 ガンバ大阪 J1リーグ 8 1
2005 ガンバ大阪 J1リーグ 24 0
2006 ガンバ大阪 J1リーグ 28 2
2007 ガンバ大阪 J1リーグ 27 2
2008 大分トリニータ(loan) J1リーグ 4 0
2009 大分トリニータ(loan) J1リーグ 26 1
2010 セレッソ大阪(loan) J1リーグ 31 4
2010-11 マジルカ ラ・リーガ 14 2
2011-12 マジルカ ラ・リーガ 4 0
2012 蔚山現代 Kリーグ 12 1
ガンバ大阪(loan) J1リーグ 12 5
2013 ガンバ大阪(loan) J2リーグ 17 1
2013-14 マジルカ セグンダ 7 0
2014 大宮アルディージャ J1リーグ 33 6
2015 大宮アルディージャ J2リーグ 33 11
2016 大宮アルディージャ J1リーグ 26 11
2017 川崎フロンターレ J1リーグ 21 2
2018 川崎フロンターレ J1リーグ 32 6
2019 川崎フロンターレ J1リーグ 26 0
2020 川崎フロンターレ J1リーグ 29 11
2021 川崎フロンターレ J1リーグ 37 8
2022 川崎フロンターレ J1リーグ 34 12
2023 川崎フロンターレ J1リーグ 33 2

個人タイトル

プレースタイル

彼のプレースタイルは「天才」と称され、にもまねできないプレーと言われている。反面、天才肌の選手にありがちなムラが大きく、若い頃に苦労をする原因ともなった。

スピードの緩急で相手選手の間を突き進む強いドリブルによって相手を2,3人かわすことができ、細かい足技よりもスルスルとすり抜けていくのが特徴的。加えて、ラストパス、クロスシュートクオリティが高く、ワンプレーで攻撃に違いを作ることができるクリエティブなプレイヤーベテランになってからは、相手の出方を冷静に見ることができ、自分の持っている武器を的確に判断して勝負できるようになった。

また、フィジカルの強さも大きな武器になっており、体幹が非常に強いため、多少のチャージを受けてもボールを失わない。この強いキープによってタメを作れるため、大宮川崎では困ったときのボールの預けどころとして重宝されていた。ちなみにフィジカルを鍛えるのに特別な筋トレをしているわけではなく、性のものと実用的なトレーニングによるものが大きい。

若い頃は運動量が少なく、オフ・ザ・ボールの場面になると動かなくなるため「地蔵」と揶揄されることが多かったが、近年は善されている。とはいえ、押し込まれる場面での守備の貢献度の低さ、疲れてくると動きが落ちるという部分は欠点として残っている。

エピソード

関連動画

関連項目

この記事を編集する
関連記事

親記事

子記事

  • なし

兄弟記事

  • なし

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

    ほめられた記事

    最終更新:2024/04/19(金) 20:00

    ウォッチリストに追加しました!

    すでにウォッチリストに
    入っています。

    OK

    追加に失敗しました。

    OK

    追加にはログインが必要です。

               

    ほめた!

    すでにほめています。

    すでにほめています。

    ほめるを取消しました。

    OK

    ほめるに失敗しました。

    OK

    ほめるの取消しに失敗しました。

    OK

    ほめるにはログインが必要です。

    タグ編集にはログインが必要です。

    タグ編集には利用規約の同意が必要です。

    TOP