小山田信茂 単語

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オヤマダノブシゲ

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小山田信茂(おやまだ・のぶしげ 1539? ~ 1582)とは、戦国時代甲斐人領戦国武将である。武田下で戦った。

概要

甲斐東部の地方(都留周辺)を治める領小山田氏の当。最後の最後に武田勝頼を見限り、武田滅亡を決定づけた「裏切り者」として(不名誉ながら)広く知られている。

その一方で、武田二十四将の一人に数えられる優秀な武将でもあった。次代を担う知勇兼備の若手エースとして武田四名臣たちからも評価されており、実際にその期待に応えた武功を多数挙げている。

…なのだが、やっぱり最後のインパクトがあまりにも大きすぎて、合わせて差し引くと結局マイナスになりがちな、数いる戦国武将たちの中でも特に評価の難しい人物といえる。

生涯

信玄時代

小山田信有(出羽守)の次男。小山田信有(弥三郎)。祖小山田信有(越中守)。紛らわしい。初陣は第三次川中島の戦いといわれる。

の死後はの弥三郎督を継いでいたが、1565年に若くして亡くなったので跡を継ぐ。内領として、特に領地を接する小田原の後北条氏と対峙する役割を担っていた。

義信事件を経て1568年、武田今川・北条の三同盟は決裂し、武田氏による駿河侵攻が始まった。この頃から本格的に信茂の武将としての活躍が見られるようになり、速先鋒を任せられている。

1569年、武田軍は小田原城を包囲するが、北条が底した籠策をとった為、これは駄だと諦めて甲斐へと帰する。その帰路を待ちせしていた北条氏照北条氏邦の軍勢との間で、三増の戦いが勃発した。この時、信茂は別動隊を率いて氏照本拠の八王子を攻撃し、北条の援軍出阻止する事に成功している。

以後も1570年末に和・同盟が結ばれるまで、駿河・伊豆で北条との戦いに従事した。これらの活躍から、まだ若い身ながら武田信玄より篤い信頼を得る。山県昌景からも若手で一番と評価されていた。

信玄の西上作戦にも同行し、三方ヶ原の戦いでは投石部隊を率いて徳川家康脱糞に一役買った 軍勢を撃ち破る。ただし、武田投石隊がいたのは事実のようだが、信茂が指揮官だったというのは後世の創作のようだ。

1573年の信玄死去の時点で30~35歳くらい。

勝頼時代

1575年、長篠の戦いが勃発。この時は他の重臣たち同様、野戦で決着をつけようという武田勝頼の方針には反対していた。本戦である設楽ヶ原の決戦では、山県昌景内藤昌豊とともに左翼を担い、徳勢と戦う…が、中央の武田信廉穴山梅雪らがさっさと退却してしまったために戦線は全崩壊。小山田勢も討死1000人近いという大損を出すが、なんとか退却に成功して勝頼と合流、甲斐へと撤退した。

御館の乱では後北条氏との関係の深い土地柄もあってか、上杉景虎の援軍として越後に出したり、勝・虎の停戦に奔走したりと忙しく働いている。ただ、結局このとき武田氏は上杉景勝との同盟を選択したため、後北条氏とは再び対立関係に陥る事になった。

……と、まあ、このように勝頼時代も引き続き武将としても重臣としても活躍しており、武田にとっては欠かせない人物であったのだ。この頃は……。

滅亡へ

1582年、織田・徳軍による甲州征伐が始まり、調略を受けた一門衆の木曾義昌穴山梅雪が寝返るなど、武田中には大きな動揺が走った。そして一般的に流布する有名な話であるが、新府まで撤退した勝頼に対し、真田昌幸上野・岩櫃への避難を提案すると、信茂はそれに反対して内・岩殿への避難を呼びかける。勝頼は最終的に信茂の提案を受け入れるのだが、中脱落者が続出する状況を見た信茂は心変わりし、を封鎖して勝頼を見捨ててしまう。

こうして行き場を失くした勝頼は山で追いつめられて自害する。信茂は織田信長に降ろうとするが、織田方の総大将織田信忠は裏切りの不忠を許さず、信茂と一族は善光寺で処刑された。

裏切りについて

一応、当人の名誉の為に述べておくが、古い文献などを見る限りでは小山田信茂自身が内への避難を積極的に推進したという記述はない。例えば、真田昌幸が岩櫃への避難を提案する話は江戸初期成立の『甲陽軍鑑』にも出てくるが、その内容は以下のようなものになっている。

  • 武田信勝(勝頼の子)は新府で迎え撃つことをする。
  • 真田昌幸吾妻の岩櫃へ行くことをする。
  • それに対し(軍鑑において奸臣として描かれる)長坂長閑斎が「真田は三代に渡って仕えた臣だが(=所詮は新参)、ここは譜代の臣である小山田を頼るべき」と進言する。
  • 内の入り口まで辿りつくが、7日経っても小山田の迎えが来ない。
  • ようやく小山田臣が来たと思ったら、人質だけ連れ去って内へ逃走してしまう。
  • 信茂は内へのを封鎖して、を撃ちかけるなどして勝頼を追い払う。

一方、武田滅亡~江戸初期に書かれたとされる『甲乱記』では、勝頼の方から信茂に対し、内に避難出来るかを確認している。

こんな感じで、基本的に内退避は武田側の意向によるものだったように見える。信茂としては正直乗り気ではなかったのかもしれないが、人質もいるので事を慎重に進めざるを得ず、結果として土壇場での裏切りになった、とも考えられる。

……とは言ったものの内領を手放すつもりはない」「人質を死なせたくない」「内に火種を持ちこみたくない」「織田北条らと特に寝返り交渉していない」という全てを満たして万事事に裏切ろうというのは流石に甘すぎる。例えば木曾としては生き残ったが、人質は処刑されている。また、あまりにも手切れを明確にするタイミングが遅すぎた。

小山田氏が武田氏の臣とはいいがたく、あくまで武田を盟とした連合体のような関係だったために「手切れ」という選択肢が存在していたわけだが、結果としてはそれを選んでしまったがために、勝頼と共に殉じた他の者たちと異なる悪評をかぶる事になった。まさにバッドエンディングルートとしか言いようがない(せっかく奪回した人質も最終的には一緒に処刑されるというバッドっぷり)。

結局、武将としては非常に優秀であったが、晩節を汚したという評価からは逃れられないだろう。

創作作品

大河ドラマ「真田丸」(2016年)

演:温水洋一第1話で裏切り、第2話で処刑という速攻退場。しかし温の演ずる 血気盛ん → 寝返り頻発 → ヘタレる → 処刑される という一連の変っぷりは、最期まで悲しみを背負いながら当の務めを果たす武田勝頼(演:岳大)との対も相まって、短い出番ながら多大なインパクトを与えてくれた。

信長の野望

信長の野望」(PCシリーズにおける小山田信茂の力一覧。

評価の難しい人物とあってか、の上下がしい。特に、裏切りが失敗に終わっている事から智謀面での評価が揺れている。例えば革新ではオール70代だったのが、次のでは一気に脳筋寄りになっていたり。ちなみに蒼天録の義理は24と中途半端な低さ。追い詰められた末の裏切りという為か、そこまで酷くはない。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 69 政治 62 72 野望 70
武将風雲録(S1) 戦闘 75 政治 48 61 野望 54 教養 62
覇王 采配 71 戦闘 70 智謀 58 政治 72 野望 54
天翔記 戦才 142(B) 智才 136(B) 政才 144(B) 61 野望 74
将星 戦闘 66 智謀 78 政治 74
烈風 采配 67 戦闘 57 智謀 77 政治 74
世記 采配 59 智謀 66 政治 63 野望 66
蒼天録 統率 63 知略 71 政治 66
下創世 統率 63 知略 66 政治 64 教養 56
革新 統率 72 武勇 71 知略 73 政治 70
統率 72 武勇 78 知略 58 政治 39
創造 統率 69 武勇 73 知略 59 政治 43
大志 統率 69 武勇 72 知略 77 内政 44 外政 50

 

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