小島時光(こじま・ときみつ ? ~ 1585?)とは、飛騨国の戦国武将である。小島雅秀の子。
姉小路氏は藤原忠平の孫・姉小路済時が姉小路姓を名乗ったのが最初である。
戦国期に入ると古河(古川)家、小島家、向小島家に分かれ、更に小鷹利家にも分かれ、狭い飛騨国内で群雄割拠の内紛が勃発していた。小島姉小路家の中興の祖・小島時秀はこれをよくまとめ、飛騨国内の有力勢力へと成長させた。しかし、時代が下るにつれ、古河姉小路家を乗っ取った三木家の成長著しく、これに対抗するか協力するかに分かれた。1559年に姉小路良頼の朝廷工作で完全に古河姉小路家の後継者として認められた。また、飛騨北部には三木家の対抗馬である江馬家が存在し、小島姉小路家としても厄介な存在であった。
織田信長の天下が見えてきた時もまだ飛騨山中の弱小勢力でしかなかった時光は本家を継いだ姉小路頼綱と盟を結び、江馬輝盛と対立することを選んだ。そして、姉小路頼綱の五男を養子とし、小島元頼と名乗らせ後継者とした。
1582年6月2日に信長が本能寺の変で斃れたあと、信長の家臣団で勢力が分裂すると、勢力拡大の機会ととらえ、頼綱と共に輝盛と戦った。
10月に飛騨国の国主を決める覇権が繰り広げられ、八日町の戦いで輝盛は戦死した。当主を失って統率がままならない江馬氏を完全に滅ぼす機会を得た時光は一気に江馬氏の本拠・高原諏訪城を攻撃し、これを陥落せしめた。
これで江馬氏は滅亡し、小島姉小路家の勢力も広がったが、この時輝盛の嫡男・江馬時政は越中から越前へと逃れていった。これで時光の地位も安泰したかと思われた。
しかし、翌年に柴田勝家が北ノ庄城で斃れ、情勢は更なる変化を及ぼした。時光は頼綱と共に佐々成政に通じて羽柴秀吉と対立するが、1585年に金森長近の大軍が10万の兵を率いて越中を平定、そのまま飛騨侵攻へとなった。
この時、金森長近の配下に父の仇と復讐に燃える江馬時政がおり、金森軍の猛攻により養子・小島元頼と共に戦死、または行方不明になったという。
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最終更新:2024/04/19(金) 15:00
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