小林可夢偉 単語

237件

コバヤシカムイ

5.4千文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

 小林可夢偉(Kamui Kobayashi,1986年9月13日-)とは、日本人ドライバーである。

概要

F1以前

TDP(トヨタヤングドライバーズ・プログラム)の支援のもと、2004年フォーミュラルノー2.0イタリアシリーズに参戦しランキング7位。翌2005年イタリアシリーズユーロシリーズを戦い両シリーズともチャンピオンいた。このダブルタイトル2000年フェリペ・マッサ以来となる快挙である。

2006年2007年ユーロF3に参戦。2007年11月トヨタF1チームサードドライバーに起用されることが決まった

2008年からはGP2に参戦。アジアシリーズマレーシアGPで日本人優勝を挙げ、さらにメインシリーズ、第1戦スペインGPレース2でも日本人優勝を挙げた。

2008年-2009年シーズンアジアシリーズで見事チャンピオン獲得。F1直下カテゴリー日本人で初のチャンピオンが誕生した。しかし、期待されたメインシリーズでは大苦戦。結果が出ずレースキャリア危機したが可偉に大きな転機が訪れる。

2009年

突然のF1デビュー

トヨタF1チームの地元となる日本GPで、正ドライバーティモ・グロック風邪により金曜日で走れなくなる。チームはその代役に可偉を任命。可偉はFP1が始まる2時間前に知らされたとのこと。久しぶりのF1ドライブとなった可偉だったが落ち着いてプログラムを消化。土曜日グロックが復帰したため可偉の役は終えた。

しかし予選Q2でグロックが最終コーナーを曲がれず突。担架で運び出され、足を負傷。結局決勝は棄権せざるを得なくなってしまう。その後の精密検脊髄に損傷が判明。チームは大事を取ってグロックを休ませ、次戦ブラジルGPは可偉が代役で週末を走ることになった。

衝撃のレースデビュー

ブラジルGPの予選は大雨により何度も中断される状況の中、可偉は予選11位と奮闘。この予選はチャンピオン争いを演じるジェンソン・バトンセバスチャン・ベッテルに試練を与え、バトンは14位、ベッテルは15位からスタートすることになった。

決勝はスタートからセーフティカーが出る波乱の展開。レース再開後、可偉にとっては苦しいレースを強いられる。すぐ後ろにバトンが迫り、1コーナーで何度もプレッシャーを受ける。しかし可偉は冷静に対処し続ける。しかし18周にも渡るバトルバトンに軍配。さらに翌周、今度は同じ日本人同士の中嶋一貴バトルピットストップを交えたバトルは接触という形で終えてしまう。可偉がピットアウト直後のストレート中嶋が可偉のテールに付くが2人とも同じライン変更してしまい中嶋フロントウイングを大破。そのままタイヤバリアまで直進してしまいリタイア。可偉もその後ペースが上がらず、入賞まであと一歩の9位という結果に終わった。レース後、バトンは可偉のブロックに相当が立ったようで、ドライバーズミティングの議題に上げるアクションを起こしたものの、結局からも相手にされなかった。

次戦のアブダビGPも可偉が出走。予選こそドライでの初アタックだったため12位に終わったものの、決勝では見事なレースを見せる。途中でピットアウトしたバトンバトルを演じ、ブラジルでのお返しとばかりにバトンヘアピン後のストレートエンドオーバーテイク。その後も快調なペースで走り見事6位入賞、しかもチームメイトヤルノ・トゥルーリ(7位)の上でフィニッシュした。この走りはく間に世界中に広がり、全世界ファンが選ぶ“マンオブ・ザ・レース”に2戦連続で選ばれ、さらにバトンをかわしたシーンが“ベストオーバーテイク”の投票1位になるなど、可偉の走りに感銘を受けた人が多かった。この走りならもが可偉がトヨタの正ドライバーになるであろうと思った・・・。

トヨタの撤退

しかしトヨタリーマンショックによる不況のあおりを受け、予算削減せざるを得ない状況となってしまい、11月4日トヨタが緊急記者会見を開き、F1から撤退すると発表した。可偉からすると得たはずのシートが突如くなってしまい、将来が不安視されてしまう状況。しかしそんな可偉に救いの手を差し伸べたのがペーター・ザウバーであった。ザウバーBMWが撤退したため、チームを買い戻しドライバーを探していた。交渉はトントン拍子に進み、可偉は晴れBMWザウバーフルタイムドライバーとして出迎えられた。ザウバーによると可偉が初めてスポンサーメーカーの後ろしでシートを得た日本人であるとのこと。

こうして可偉はF1への第一歩を踏み出したのであった。

2010年

BMWザウバー

BMWザウバー2010年マシンC29は、2009年BMW撤退に伴って、ギアボックスとエンジンフェラーリから供給してもらうこととなった。テストこそ驚異的なパフォーマンスを見せたものの、シーズン開幕以来4戦連続リタイアと苦難の幕開けとなった。周回を重ねることもままならなかったため、データ収集ができずマシンアップデートにも苦しんだ。

しかし、第4戦中国GPからチームに加わったジェームズキーの懸命なアップデートにより、第7戦トルコGPで10位入賞を果たした。以後、第9戦ヨーロッパGPでは7位入賞に加え、フェルナンド・アロンソセバスチャン・ブエミを残り数周のうちにオーバーテイクするという見事なパフォーマンスを見せた。また、続く第10戦イギリスGPでは6位入賞、第12戦ハンガリーGPではチームメイトペドロ・デ・ラ・ロサと共に9位入賞、第13戦ベルギーGPで8位入賞を果たした。

第14戦シンガポールGPではタイヤが終わってしまいリタイヤを喫したが、続く第15戦日本GPでは、スタートから荒れた展開の中7位入賞を果たした。順位こそ今期最高位とはならなかったものの、ヘアピンでの怒濤のオーバーテイクは世界から大絶賛を受けることとなった。ハイメ・アルグエルアリを2度アウト側からオーバーテイクした際の接触ので、サイドポンツーンやディフレクターフロントウィングの損傷を受けたが、その後も驚異的なパフォーマンスを見せ、自己ベストを何度も塗り替え(これには片山右京も思わず苦笑い)、終わってみればヘアピンで5回のオーバーテイクをしていた。レース後にはBBCの独占インタビューを受け、エディー・ジョーダンマーティン・ブランドルから絶賛を受けた。

2011年

ザウバーF1

チーム行収益の分配などの配慮が不要となったため、名称を「ザウバーF1チーム」とめる。
メインスポンサーとして、メキシコ大富豪として知られるカルロス・スリム率いるテルメックスグループが付き、資面での不安がくなった。
チームメイトとして、テルメックスグループスポンサーとなっている新人、セルジオ・ペレスが加わった。 
マシンジェームスキー設計のC30となり、C29とは異なって全な形での設計、開発が行われた。

開幕前のテストではBMW時代以来となるKERSトラブルがあったものの、順調にテストをこなした。

開幕戦のオーストラリアGPでは、他のマシンよりもタイヤに優しい特性を活かし、ペレスは1ストップ、可偉は2ストップを敢行して、可偉は8位、ペレスは7位で完走した。しかしリヤウィングのフラップの湾曲が規定よりも急だったため、レース後に失格となってしまう。

しかし第2戦マレーシアGP、第3戦中国GPと、可偉は着実に入賞圏を走り、連続入賞(7位、10位)を果たす。この2レースではトップチームドライバーバトルする展開もあり、映像でもたびたび放映された。

第6戦モナコGPでは予選13番手からスタート。ここからチームの1ストップ作戦と可偉のドライビングとが見事にはまり、一時は表台圏内を狙える位置にまでジャンプアップする。終盤に旗中断などを挟みマージンくなったところをマーク・ウェバーオーバーテイクされたものの、モナコGP日本人最高位、そして自身最高位の5位でフィニッシュした(モナコにおける2人日本人入賞者にもなった)。続くカナダGPでは、大雨混乱に乗じて2番手を走行中、旗中断。そのため、2時間くらいフロントローにつく可偉のザウバーC30が映像として全世界に放送された(レースは7位入賞)。

偉自身もトップチームへの移籍を狙ったものの、いているシートがないと見込み、ドイツGPでザウバー2012年シート契約を結んだ(契約にあったオプションを行使)。

2012年

ザウバー戦闘力の高いC31をデビューさせた。開幕戦からトップチームに迫る速さを見せ、可偉は6位で終えた。

中国GPでは自己ベストの予選4位(ハミルトンのペナルティによって3番グリッドから)だったが、スタートで失敗し、後半で挽回するも10位に終わった。しかし決勝では一の1分39台をたたき出し、1989年オーストラリアGPでの中嶋悟以来、日本人二人のファステストラップ記録した。

ドイツGPでは予選13番手から5位フィニッシュ。2位ベッテルのペナルティにより自己最高位の4位。

ベルギーGPでは自己ベスト更新、2番手フロントローからのスタートとなるも、ロマン・グロージャンミサイル攻撃多重クラッシュに巻き込まれ、13位でフィニッシュ。表台獲得はと消えてしまった。

日本GPでは予選4位(バトングリッド降格により3番グリッドからスタート)から3位フィニッシュ。遂に自身初の表台を獲得した。
日本人では佐藤琢磨に続く3人台という点では1990年鈴木亜久里に続く2人の表台獲得となった。

シーズン中盤まで、スポンサーの少なさやチームメイトペレスの後を拝していたことからシートを危ぶむが頻繁に聞かれていた。そしてそれは的中し、ザウバーシートをこのシーズン限りで失うことになった。シーズンも終わりにさしかかる頃、来季の参戦資を集めるためKAMUI SUPPORTという名で募を開始し、1億8000万円ほど集めるも、2013年シート獲得にはつながらなかった。

2013年

世界耐久選手権 GTEプロ AFコルセ

F1フル参戦の望みが断たれたあと、他カテゴリにすすむか浪人するか去就が注されていた可偉。2月にはWECに参戦するフェラーリ系のチームである AFコルセのテストに参加し、3月12日にはAFコルセからGTEクラスフル参戦することが発表された。フェラーリファミリー日本人ドライバーが加わ るのは史上初めてのこととなる。

2014年

ケータハムF1

2014年1月21日ケータハムF1チームよりF1復帰することが発表された。
しかし、チーム状況、マシンの出来は最悪で、入賞することもままならず、さらにはチームの売却、資難によって3戦に出場できなかった。
シーズン終盤になると破産管財人によって競売の対となり、何とか募によって最終戦に参戦できたものの、それをもってチーム事実上解散した。

2015年以降

F1シートを失い、なおかつ参戦チームの減少、持ち込みスポンサーの額が少ないことも相まって、2015年シートを獲得できなかった可偉は、内最高峰であるスーパーフォーミュラチームルマンから参戦。初年度から優勝争いに絡むものの、未だに未勝利である。

また2016年WECのLMP1クラストヨタGAZOOレーシングから参戦。ル・マンではポルシェしくバトルを繰り広げるも、最終盤にスピンを喫する。結果的にはこのスピンさえければトヨタ優勝だった。

しかし同年のWEC富士では戦闘力で劣るマシン戦略完璧に遂行し、2差でアウディを抑えて優勝、名誉を回復した。なお公式レースでの優勝は、2009年GP2アジア以来であった。

2021年ル・マン24時間レースWEC第4戦)では、同年から導入されたル・マン・ハイパーカー(LMH)規格のトヨタGR010ハイブリッドマイク・コンウェイホセマリアロペスと組んでドライブし、ポールトゥウィンで自身初のル・マン総合優勝を成し遂げた。

エピソード

今宮純によると、可偉は日本人で初めてマクラーレンリストに載ったとのこと。

偉の実家寿司屋であるため、しばしばネタにされることがある。本人も実際、シートければ寿司屋に修行するとメディアったほど。ただ本人はエビアレルギーを持っているため、板前になりたくてもなれないのだという。

偉が子供の頃に憧れていたドライバーアイルトン・セナだったという。そしてF1に来た今、可偉のトレーナーを務めるヨゼフ・レベーラーはそのセナトレーナーだった。

関連動画

関連コミュニティ

関連項目

この記事を編集する

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
天外魔境II[単語]

提供: 足下おミル

もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2024/04/18(木) 13:00

ほめられた記事

最終更新:2024/04/18(木) 13:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP