小林雅英(こばやし まさひで(コバマサ)、1974年5月24日-)とは、山梨県出身の元プロ野球選手(投手)、2000年代の千葉ロッテマリーンズに君臨した劇場王である。現在はエイジェックの投手コーチを務める。
エイジェック 投手コーチ | |
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小林雅英 | |
基本情報 | |
国籍 | ![]() |
出身地 | 山梨県 |
生年月日 | 1974年5月24日 |
身長 体重 |
183cm 88kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1998年ドラフト1位 |
引退 | 2011年 |
経歴 | |
選手歴
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プロ野球選手テンプレート |
山梨県立都留高等学校では1年からエースとなったが、甲子園大会出場はなかった。
東京ガスに就職し、2年目に都市対抗野球大会に補強選手として出場した。
1998年ドラフト1位で千葉ロッテマリーンズに入団した。背番号は30。
1999年(1年目)には先発も務めていたが、2000年にリリーフへ転向すると、連続セーブ数の記録を塗り替えるなど、クローザーとして開花。ファンからは幕張の防波堤と呼ばれていた。
2005年には29セーブを記録してセーブ王を獲得し、ロッテの優勝、日本一、アジアシリーズ制覇に貢献し、3回胴上げ投手になった。
2006年6月7日の中日ドラゴンズ戦で史上初の6年連続20セーブを達成した。
2007年オフにFA権を行使して、MLBのクリーブランド・インディアンスに入団。
2008年は、57試合55.2回で4勝5敗6セーブ、防御率4.53で終える。
2009年には10試合で防御率8.38と不振が目立ち、7月に自由契約となる。
2010年、読売ジャイアンツで日本球界に復帰するが、12試合の登板にとどまり、1年で戦力外通告を受ける。12球団合同トライアウトを経てオリックス・バファローズに入団した。
2012年からはオリックスの育成担当コーチに就任。翌年からは二軍投手コーチを担当。
2015年からはロッテの一軍投手コーチを務める。2018年をもってロッテを退団。
2019年からは女子プロ野球の投手総合コーチに就任。全球団の指導を担当する。また、チバテレビで野球解説者も務める。
主な持ち球は、150km/hを超える直球と、直球と同等かそれ以上の球速のシュート、縦のスライダー。
長くロッテのクローザーとして活躍していたが、投球スタイルはランナーを出しながらも抑えていくものであったため、佐々木主浩のような歴代のクローザーに比べると安定感に欠けていた。
その綱渡りのような投球スタイルはコバマサ劇場、(真の防波堤は小坂誠ではないかという揶揄も込めて)幕張の土嚢などと呼ばれ、良くも悪くもファンの注目を集めていた。
ロッテが優勝した2005年には、セットアッパーとして活躍した薮田安彦、藤田宗一らとともにYFKと呼ばれるようになる。
もちろん、この年セリーグで優勝した阪神タイガースのJFKになぞらえて、スポーツメディアが勝手につけた呼称なので、呼ばれていた当人たちは良く思ってなかったとのこと。
通算:13年 | 登板 | 先発 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB:11年 | 463 | 13 | 0 | 0 | 36 | 34 | 228 | 4 | .514 | 599.0 | 180 | 465 | 217 | 195 | 2.93 |
MLB:2年 | 67 | 0 | 0 | 0 | 4 | 5 | 6 | 2 | .444 | 65.1 | 18 | 39 | 39 | 37 | 5.10 |
タイトル | ||
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最多セーブ投手 | 1回 | 2005年 |
表彰 | ||
月間MVP | 2回 | 2001年6月、2002年7月 |
セ・パ交流戦MVP | 1回 | 2006年 |
その他 | ||
17試合連続セーブ | - | 2002年、パ・リーグ記録 |
33試合連続セーブポイント | - | 2002年、新記録 |
掲示板
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最終更新:2025/03/28(金) 02:00
最終更新:2025/03/28(金) 01:00
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