小泉純也とは、日本国の防衛庁長官である。異名は「安保男」。旧姓は鮫島。
舅は「普通選挙運動の鬼」「野人小泉」として知られる、小泉又二郎。息子は小泉純一郎。
鮫島純也(さめじますみや)は、1904年(明治37年)1月24日に鹿児島県川辺郡東加世田村に生まれる。出稼ぎ後、丁稚となり、夜は鹿児島実業へとかよう。その後、朝鮮銀行のお茶汲みや大阪などでの職工、代議士の書生、日本大学法学部政治学科の夜学生などを経て、立憲民政党の職員となる。
その後、立憲民政党幹事長であった小泉又次郎家と親しくなり、娘の芳江と駆け落ち同然に結婚。又次郎は「代議士(=衆院議員)になれたら許す」と許可。小泉姓に改姓後、「じゅんや」と呼称を改めた。
1937年、鹿児島選挙区にて第20回衆院総選挙に民政党公認出馬・当選。1942年総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて出馬当選したため、戦後、公職追放となる。
その後、改進党から鳩山一郎率いる日本民主党の結成に参加。鳩山の死後は大麻派、岸派、愛正会に属した。又次郎の地盤を継ぐ形で出馬、衆院議員に返り咲くと、法務政務次官や防衛庁長官を歴任した。
戦時中、「町おこし策」として陸軍に掛け合い、地元である万世町に飛行場を誘致したが、後に沖縄の悪化で特攻基地化して201人が出撃、帰らぬ人となった。このことについて、純也は生涯悔いていたという。近隣の知覧基地から出撃・戦死した航空兵の中には自らの甥(純一郎のいとこ)がいた。また、この事実こそが息子純一郎の靖国神社参拝へ駆り立てた原因だとされている。佐藤栄作内閣ではカーチス・ルメイの叙勲を閣議決定し、佐藤とともに国会で糾弾されるなど、話題に事欠かなかった。
在任中、朝鮮半島が有事の際に自衛隊出動が可能か研究した三矢研究が発覚して辞任した。また、在日朝鮮人の帰還事業の中核的な役割を果たしたことでも知られる。
掲示板
掲示板に書き込みがありません。
提供: JOY
提供: えいたん
提供: unkosan
提供: Well.Mk-Ⅱ
提供: ネオ・オオミヤ(仮)
急上昇ワード改
最終更新:2025/03/23(日) 03:00
最終更新:2025/03/23(日) 03:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。