コマキナガクテノタタカイ
小牧・長久手の戦い(こまきながくてのたたかい)とは、1584年(天正12年)に尾張国で起こった戦いである。
戦いの背景や、連動した全国的な戦いの事は秀吉包囲網の記事を参照。ここでは3月から4月にかけて、尾張国小牧および長久手付近で起こった 徳川家康・織田信雄連合軍 対 羽柴秀吉軍 の戦いに絞って記述する。
1584年に家康・信雄連合によって仕掛けられた『秀吉包囲網』によって全国で発生した数ある戦の一つであるが、三英傑の内の二人である豊臣秀吉・徳川家康が唯一直接対決した戦いである事も手伝い、知名度も非常に高くなにかと話題に上がる。
この戦いの勝敗は戦術的には家康勝利となったが、包囲網の戦乱はこの後も半年以上続き、全体での戦略的勝利は秀吉の手に帰すことになる。
織田家重臣で清洲四宿老の一人である池田恒興は開戦前は信雄・家康陣営に就くものと思われていたが、娘婿の森長可とともに秀吉方に転向してしまった。恒興の離反により美濃衆はほとんどがこれに追従し、信雄・家康陣営は早くも戦力を大きく消失する。池田恒興はさっそく信雄の領地尾張に侵入。3月13日には早々に犬山城を落とした。
この動きに対して家康・信雄は15日には小牧山に移動。濃尾平野の中にぽつんと存在するこの小高い山は周囲の状況を即座に見渡すことが出来る戦略的要衝だった。かつては織田信長が居城を構えたこともあるが、この当時では廃城となっていた。家康・信雄連合はこの山を占拠し、地の利を得ることになる。
もちろん池田側も戦略的要衝小牧山は見逃せない。恒興の娘婿である鬼武蔵こと森長可が小牧山の西側の羽黒に進出し、16日にはそこで陣を構え、小牧山を窺う姿勢を見せる。
この森長可の侵攻に対し、家康は家臣の酒井忠次・奥平信昌・松平家忠らを派遣。17日の明け方に森本陣へ奇襲をかけ、包囲攻撃でこれを討ち破った(羽黒の戦い)。長可は大きな被害を出して犬山城に帰還した。
森長可を撃退し、ひとまず襲撃の心配がなくなると家康は18日には小牧山城の修復に着手。小牧山城をより強固な城へと作り変える。
一方の秀吉も羽黒の戦いの結果を聞き、大坂から出陣。坂本城に織田秀信、岐阜城に織田秀勝を置き、3月27日には犬山に到着し、さらに翌28日には楽田城に陣を構える。
信雄・家康は防備を固めるべく砦の建築を進めていたが、秀吉もこれに対抗し、尾張各地にはそれぞれの城砦が数多く築かれ、持久戦の様相を呈し始める。以降両陣営は砦をいくつも作って防衛線を構築し、たがいに手出しができなくなってしまう。小競り合い以上の激突は起きず、両軍とも我慢比べに入った。この流れは先年の賤ヶ岳の戦いでの築城合戦を思い起こさせる。
この時構築された両軍の砦は以下のようになる。
秀吉軍 | 家康・信雄軍 |
---|---|
痺れを切らし、先に動いたのは秀吉軍である。この時秀吉軍の総勢は10万を超えていたとされ、家康・信雄軍の総勢2万~3万を大きく上回っていた。
そこで秀吉は別働隊を編成し、小牧での対陣にほぼ全軍を出して手薄になっているであろう家康の本拠地三河を攻めることを計画した。いわゆる三河中入り[1]と言われる作戦である。
元来、この三河中入りの発案は池田恒興であるとされていた。池田・森が羽黒の戦いでの雪辱を果たすために秀吉に提案し、秀吉がこれにしぶしぶ許可を与えたという説である。しかし、池田提案説は秀吉顕彰の色が強い『太閤記』が初出であり、現在は秀吉発案だったという説の方が強くなっている。
家康の本拠地三河を攻める事によって家康を堅固な陣から釣りだす事を目的としたこの作戦には秀吉の甥である羽柴秀次(のちの豊臣秀次)が総大将となり、池田恒興・森長可・堀秀政の軍勢と合わせ2万の別働隊が当たることになった。
中入り軍の編成は以下の通り
しかし、家康・信雄軍は正確に中入り部隊の動向を把握しており、反撃に出ようとしていた。家康・信雄軍は中入り部隊が出陣したのを知ると、小牧山の本陣にわずかな兵と本多忠勝・石川数正などを残し、家康・信雄を含む主力のほとんどを中入り部隊の追撃に回した。
織田家臣の水野忠重・丹羽氏次、徳川家臣の大須賀康高・榊原康政を別働隊として小幡城に先行させ、家康・信雄の主軍がそれに続いた。
4月9日未明、中入り部隊の第一隊である池田隊はまず丹羽氏次の弟である丹羽氏重が守る岩崎城に襲い掛かった。岩崎城には300名足らずの守備兵しかおらず、池田隊は早々にこの城を落とす。
4月9日早朝、岩崎城の戦いが起こったのとほぼ時を同じくして、榊原らが率いる別働隊は中入り部隊の後備である秀次隊に攻撃を仕掛けた(白林山の戦い)。このタイミングでの襲撃を予期していなかった秀次隊は総崩れになり、総大将の秀次は自分の馬さえなくし、部下の馬を使って戦場を離脱するありさまだった。
この失態は秀次の今後に大きな遺恨を残したといわれている。
秀次隊壊滅後、別働隊はさらに堀秀政隊に襲い掛かった(桧之根の戦い)。しかし、名人久太郎の異名をとる秀政率いる堀隊はこの襲撃を退け、逆に別働隊の方に大きな被害を出している。
堀隊はさらに追撃をかけようとしたが、この頃に家康・信雄本隊は色金山に本陣を置き、家康の金扇の馬印を掲げた。この馬印を見た秀政はこれ以上の追撃は不要と判断、犬山方面に撤退した。既にこの時、信雄・家康軍は秀政と恒興・長可の間を分断する形で進軍しており、秀政による救援は不可能だったのだ。
この時点で家康を固い陣地からおびき出すという中入りの目的は既に果たし、それを秀吉軍が把握した。しかし、後備の2隊が壊滅・撤退してしまったため、前衛の池田隊・森隊は孤立してしまったのである。
4月9日午前、後衛がすでに無い事を知った池田隊・森隊は馬を返し、家康・信雄軍と激突した(長久手の戦い)。
序盤は両軍とも一進一退の攻防を繰り広げたが、森長可が鉄砲の銃撃により戦死。銃は槍より強し。これで流れは家康・信雄側に傾き、池田恒興、並びにその長男である元助も討ち取られた。池田家はこの戦いを生き延びた二男の池田輝政が継ぐことになる。
この戦いにより中入り軍は完全に壊滅。家康・信雄は小幡城に引き上げ、この戦勝を各地の勢力に知らせ、大いに気勢を上げた。
長久手での一連の戦いが起こっていた4月9日、秀吉本隊は陽動として小牧山に攻撃を仕掛けていた。しかし、家康がすでに出陣していたことを知ると、秀吉は午後から数万の軍勢を率いて家康の追撃に向かう。
中入り軍は壊滅したが、その目的である家康の釣りだしは見事に成功しており、あとは陣地から出た家康を討ち取れば戦略的には勝利なのである。
だが、そうは本多忠勝が許さない。小牧山本陣に残されていた忠勝はわずか500の兵を率いて進撃する秀吉軍に並走し、鉄砲を打ちかけるなど挑発し、秀吉隊の行軍を阻んだのである。秀吉はこれを相手にしないようと命令したが、執拗な妨害にやはり行軍速度は落ちたと思われる。
秀吉は家康・信雄が小幡城にいる事をつかむと10日朝を期して小幡城を攻める事を決める。しかし、秀吉が小幡城に攻め寄せた時にはすでにそこに家康・信雄はいなかった。家康・信雄は夜のうちにすでに小牧山へ帰還していたのである。
秀吉はこれ以上の進軍は不要と判断。楽田へと帰還した。そしてあとには秀吉軍の別働隊が壊滅したという結果のみが残った。家康・信雄は秀吉相手に戦術的勝利を得たのである。
再び小牧の陣地で戦線は膠着。互いに何もできないままにらみ合いを続けることになる。この間に秀吉も家康も何度も陣を離れ大坂城や清州城へ帰っている。家康・信雄vs秀吉の戦いは新しい段階に入った。
徳川軍が羽柴(豊臣)軍を破ったこの戦いは徳川顕彰の題材とされた。
古戦場である小牧山などは尾張徳川家によって保護された。小牧山が一般に開放されるようになったのは、明治時代になってからの事である。
掲示板
22ななしのよっしん
2021/12/07(火) 18:19:16 ID: DkDU2LEZfi
この一連の戦いでは、桧ヶ根で堀秀政が、榊原康政ら敵の別働隊を撃破するも
敵の本軍が迫っているのを知って一気に撤退したという話が伝わる。
ではなぜ、堀秀政は家康を誘うのが作戦目的と知っていながら撤退したか?
それは言うまでもなく、家康だけではなく信雄、つまり信雄家康連合軍が
総出をあげて羽柴方の別働隊を壊滅させに来たこと察したからである。
別働隊だけで敵の本隊を破るというのは不可能に近い。歴史上、殆どない。
1806年にフランス皇帝ナポレオンの部下だったダヴーが、2万7千の
支軍で6万3千の敵本隊を破ったが、この時ですら敵の兵力は分散していた。
Wikiでもここでも堀秀政は家康の馬印を見たから撤退した、とあるが、
家康の誘導が目的なのに家康の馬印を見て逃げる奴はいない。信雄が来た(≒敵全軍が来た)から逃げたのだ。
23ななしのよっしん
2021/12/07(火) 18:37:17 ID: DkDU2LEZfi
さて、信雄+家康連合軍は全軍総出で4月9日に羽柴方別働隊を
ボコボコにしていったわけだが、当の秀吉は4月9日早朝から小牧山城を
攻囲していたものの、昼頃になって秀次隊の壊滅の報せを受け、
竜泉寺方面に軍を引き連れて向かっている。ここでは
「家康を誘導させることができたから成功」とあるが・・・・
なんのことはない、どう見ても失敗である。家康の誘導以上に
「家康と信雄を分断すること」が目的だったのに、一緒になって
出撃されて、別働隊をボコボコにされてしまったのだからどう見ても失敗だ
ちなみに徳川顕彰の軍記などでも、この時信雄は小牧山にいたとか
戦況を理解できていないとしか思えない逸話があるが、仮に徳川軍が単独で
別働隊を追撃していたら、秀吉の目論見どおりになって家康は敗北していた可能性が高い。
24ななしのよっしん
2021/12/07(火) 18:51:18 ID: DkDU2LEZfi
纏めるとこの戦いは
「天才と言われた羽柴秀吉が愚物となり、
愚物と言われた織田信雄が天才となった」
あべこべ戦争である。
この戦いで一番冴えていたのは、秀吉家康信雄という当事者3人の中で一番アホだった織田信雄だ。
三河に領地を持つ徳川家康が、手薄な本領三河に向かう軍団を無視できるわけがない。
しかし織田信雄は尾張の領地を空にする危険性を顧みず、三河を狙う別働隊撃滅に全軍を差し向けた。
もし織田信雄がその後天下を取っていたら、空城の計として講談に広く伝わっただろう。
有能無能の二元論では説明できないのが、この戦いの面白さだ。天才が凡将に翻弄された戦い。
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最終更新:2022/06/27(月) 16:00
最終更新:2022/06/27(月) 16:00
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