小笠原貞宗 単語

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小笠原貞宗おがさわら さだむね(?年1347年)とは、南北朝時代の武将である。

生年に関しては、『尊卑分脈』に57歳で亡くなったとある正応4年(1291年)、『小笠原系図二編』に56歳で亡くなったとある正応5年(1292年)、『寛永諸系図伝』、『寛政重集諸譜』、『系図簒要』、『小笠原系図』、『小笠原系図別本』にある永仁2年(1294年)、と、史料によってまちまちである。

概要

数々の政争で嫡流が変わった結果、南北朝時代の動乱で最終的に信濃守護小笠原氏の初代になった人物。

ここまでのあらすじ

小笠原氏は甲斐源氏の一門である。武田信義安田義定加賀美遠光の3人が並び立ち、源頼朝の同盟軍だか配下だかよくわからない自立した存在だったが、次第に勢力を減じ、御家人に落ち着いた存在である。

このうち加賀美遠光源頼朝閥となり、武田信義の庶子だった武田信光加賀美遠光子供秋山がいたので多分庶子?)だった小笠原長清の2人は四天王と称された有力御家人として、鎌倉幕府内に地歩を築いたのである。

この小笠原長清平知盛に仕えていたが、源頼朝が挙兵するとこちらに与した。上総介広常の矢田尼?)と婚姻関係を結んだ小笠原長清は、父親加賀美遠光信濃守という御門葉の一員になったこともあり、源頼朝から強い信頼を得たのである。

しかし、彼ら信濃御家人は、源頼家営となり、企氏の乱でいったん落する。小笠原長清の嫡男・小笠原長経も、この乱の波及で惣領の座を小笠原時長に奪われたものの、承久の乱の功績で波守護となった。この系統は小笠原氏であり、三好氏などが末裔を称している。この小笠原氏は西を勢力圏にし、在活動がもっぱらであった。

一方代わって惣領となったのが、小笠原時長である。というか、この系統は伴野を名字としたので、伴野時長といってもよい。伴野時長の系統は、安達氏を縁戚として、鎌倉幕府で盤石な体制を築いたのである。

……?安達氏?勘がいいね。霜月騒動である。安達泰盛が殺され、伴野長泰を筆頭に、小笠原氏は再度落する。この結果、小笠原氏の傍流である、小笠原長氏が小笠原氏を継ぐ。なぜ彼が小笠原氏を継げたのかは、御内人説や在活動を専らにしていたため関係だった説など、まだ確定していない。

そしてこの小笠原長氏の息子小笠原宗長、孫・小笠原貞宗の代に、南北朝時代となった。

小笠原貞宗と南北朝動乱

ぶっちゃけ、この小笠原宗長・小笠原貞宗子であるが、御家人御内人の中間のような存在であった。とはいえ信濃の名門御家人として元弘の乱楠木正成攻撃などにも参加している。

ところが、足利尊氏の離反と軌を一にして、足利尊氏方に加わる。太平記などを見た限りでは、足利義詮新田義貞と共に、鎌倉攻略に加わっていたようだ。そしてその功績で、建武政権信濃守護となった。なお、ぶっちゃけ言えば、小笠原氏のうち信濃にいたのは前述した伴野氏や大井氏である。つまり、これをきっかけに初めて小笠原貞宗の系統が、信濃に進出することとなった。

ところが、中先代の乱の迎撃に失敗する。が、足利尊氏がこの迎撃後に建武政権を離反すると、引き続きこれに仕え、室町幕府からも信濃守護とされていった。

ただし、戦国時代ファンには有名な話だが、小笠原氏は信濃覇権を築くのに失敗する。前述の通り、実は鎌倉時代以来の基盤もなかったため、人の自立性は強かった。さらに言えば、北信には村上氏がほぼ守護と同等の権限を持った状態でおり、南信には宗良親王を旗印とした南軍がいたからである。

それに輪をかけたのが、幕府が守護・小笠原貞宗、軍事揮者・村上信貞、大将吉良時衡という3人の軍事揮権を持つ人物を信濃で戦わせたことにある。そしてややこしいことが起こる。観応の擾乱である。この結果、小笠原貞宗と村上上杉氏は対立し、足利尊氏足利直義妥協ラインとして、近領に半分程度侵出することができた。そして、この1か後、小笠原貞宗は亡くなることとなった。

その後の小笠原氏

観応の擾乱を受けて、小笠原貞宗の嫡男・小笠原政長はまず足利直義に降り、信濃諏訪直頼のものとなった。ただし、足利尊氏が盛り返すと、こちらにつき、足利尊氏勝利後の埵山体制で信濃守護となる。近領も全領有できたのである。

ところが足利尊氏死後の旧足利直義営の復権で、信濃守護上杉房、信濃小笠原長基という体制になり、息を吹き返した諏訪氏達との殴り合いが起き、近領も人たちが競合する状況になってしまった。このような鎌倉府の自分を無視した姿勢に反発した小笠原氏は、京都の幕府に接近した。なお、奉公衆として有名な京都小笠原氏は小笠原貞宗の小笠原貞長の系統である。

が、至徳元年(1384年)頃に斯波義重が守護として派遣される。つまり、室町幕府の少なくとも管領レベルの人々にすら見捨てられ、小笠原氏は他の人とともに抵抗する一方で、もはや将軍に近づくしかないと、将軍権力に接近したのだ。

その結果、小笠原長秀は足利義満のおかげで応永5年(1398年)に守護となった。ところが大合戦と呼ばれる人一小笠原氏の戦いによってあっけなく守護を剥奪。信濃は幕府直轄地とされた。そして足利持氏が登場すると、信濃ってもしかして鎌倉府の防波じゃね…?となり、小笠原氏が再度復権する。

さて、ここまで見てきたように、小笠原氏は、幕府権力に依存しまっって、政治的支配の段階に行けなかった。そして嘉吉の乱の後、小笠原氏の分裂が引き起こされていく。

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