小谷正勝(こたに ただかつ)とは、元プロ野球選手のことである。
OB | |
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小谷正勝 | |
基本情報 | |
出身地 | 兵庫県加西市 |
生年月日 | 1945年4月8日 |
身長 体重 |
178cm 88kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1967年ドラフト1位 |
引退 | 1977年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
高校は県立明石商業高等学校に進学するも、甲子園大会の出場は無かった。
卒業後は國學院大學に進学。入学直後にチームは東都大学リーグの2部リーグ降格し、その後在学中に1部リーグへ復帰することはできなかったものの、リーグ屈指の投手としてプロからも注目された。
1967年のドラフト会議にて大洋ホエールズからドラフト1位指名を受け入団。背番号は24。
入団3年目の1970年、大洋球団初のストッパーの役割を任され、リーグ最多の53試合に登板、4勝4敗、防御率2.11の好成績を残し首脳陣の期待にしっかりと応えてみせた。
翌1971年、前年同様安定した投球で試合を締める役割をこなし、オールスターゲームにも初選出された。このオールスターでは、江夏豊の9者連続三振の影に隠れてしまったのの、7回1死から登板し打者8人をノーヒットに抑え、オールスター史上初の継投によるノーヒットノーランに貢献した。この年は2年連続リーグ最多登板となる58試合に登板し、11勝9敗、防御率2.13の成績を残した。
しかし、体のむくみや疲労が溜まりやすくなっていたことからシーズンオフに病院で診察を受けたところ、肝臓肥大が発覚。医師からはドクターストップがかかったものの小谷はそれほど重く受け止めず、「練習を含め一日の投球数を最大80球に制限する」ことで乗り切ることにした。
1972年は18試合にとどまったが、1973年は37試合、1974年は33試合に登板。1975年、4シーズンぶりの勝利を上げると、8月には初セーブも挙げた。この年は36試合に登板し、3勝4敗2セーブ、防御率2.85の成績を残した。
1977年、18試合に登板し、1勝1敗2セーブの成績を残したが、この年限りで現役を引退した。
引退後は大洋・横浜、ヤクルト、巨人、ロッテなどでほぼ途切れること無く各球団の一・二軍投手コーチを務め、数多くの名投手たちを育て上げた。
2019年、巨人で巡回投手コーチを務めていたが、シーズン途中から体調が悪化し同年限りで退団。後に胃と小腸にがん細胞が見つかり入院治療のために退団したことを明らかにした。
2021年11月、横浜DeNAベイスターズのコーチングアドバイザーに就任。「僕の同年代の方が病で亡くなっていく。このままくたばっていくのを待つのかなと思っていた。その時に、何かできることないかなと思っていたら、横浜から話があった。」と語り、キャンプ期間中に首脳陣をサポートしたり選手たちにアドバイスを送っていた。
現役時代は「太陽が出ない日があっても、小谷の投げない日はない」とまで称されたタフさを売りに、連日試合終盤やピンチの場面で登板したストッパー。巨人キラーとしても知られた。
通算6セーブだが、全盛期はセーブが記録されるようになる以前だったため、現在ならもっと稼いでいたと思われる。
引退後約40年もの長きに渡り4球団でコーチを務めた名指導者として知られ、教え子には遠藤一彦、川崎憲次郎、斎藤隆、三浦大輔、佐々木主浩、石川雅規、五十嵐亮太、内海哲也 等など錚々たる面々が名を連ねる。
通算:10年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 | WHIP |
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NPB | 285 | 2 | 0 | 24 | 27 | 6 | --- | .471 | 549.1 | 225 | 391 | 210 | 187 | 3.07 | 1.19 |
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最終更新:2025/02/11(火) 23:00
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