小鹿範満(おしか・のりみつ ? ~ 1487)とは、駿河国の戦国武将である。小鹿範頼の子。弟に小鹿範慶。
ここでは弟・範慶についても記述する。
4代当主・今川範政の末子である千代秋丸は、彼を溺愛する父の意向もあり兄・今川範忠と家督争いを繰り広げるが、幕命の命により範忠が当主と決まった。その後、千代秋丸は駿府郊外の小鹿を拠点として小鹿範頼を名乗った。これが小鹿氏の始まりである。
範忠はその後の活躍で「天下一苗字」の権利を得て、今川宗家以外が今川を名乗る事は室町幕府から禁止された。範忠の玄孫・今川氏真の代に江戸時代を迎えるが、江戸幕府下でもこの権利は保証されている(たとえば氏真の次男は品川高久と名乗った)。
ただし、当時の公家の日記や幕府の記録では今川の分家も引き続き今川姓を名乗っているため、「天下一名字」については虚構ではないかとの見方もある。範満も当時の文書では「今川新五郎」と記述されている。
範満は武勇優れた武将と『今川記』で評されており、1476年に遠江の国人である横地・勝間田両氏を滅ぼした時も戦功をあげたとされる。しかし勝利の緩みもあってか、この戦から駿府へ帰城する途上で、残党に襲われて6代当主・今川義忠は戦死してしまった。この時義忠の嫡男・今川氏親はわずか6歳(4歳説もある)であり、突然の混乱に対応できる状態ではなかった。
譜代家臣たちは年長である範満を次期当主として支持し、家督相続を望んだ。これに命の危険を察知した氏親の母・北川殿は、氏親を連れて焼津の小川郷へと逃げ込んだ。やがて両派が合戦に及ぶなど今川氏は内紛状態となり、外部からの介入を招く事態となった。
まずは伊豆の堀越公方・足利政知が介入し、上杉政憲を派遣。また、範満の縁者である扇谷上杉氏も家宰・太田道灌を派遣した。両者は共に範満派であった。
これに対し室町幕府は危機感を募らせ、北川殿の実家の伊勢氏の要望もあいまって北川殿の弟・伊勢盛時(北条早雲)が駿河へと派遣された。その結果、氏親が元服するまで範満が当主代行を務めるという条件で和解が成立した。なお、和解を主導したのは盛時の父・伊勢盛定であり、盛時は見届け人のような立場であったとされる。和解後、盛時は帰京した。
それから約10年後、氏親が元服の年齢を迎えたが、範満は約束に反して家督を返還しなかった。というか10年も経過しているので、今川家中では当主は範満というのがほぼ既成事実と化していた。また引き続き太田道灌と上杉政憲の強力な後ろ盾もあり、範満の立場は揺ぎ無いものであった、かに見えた。
だが、北川殿が再び父親に嘆願したために再度盛時が駿河に下向してきた。一方、1486年に上杉定正によって道灌は謀殺され、その翌年には足利政知の長男・足利茶々丸の廃嫡を巡って、政知と対立した政憲は自害を強要されて果てた。
頼りとしていた後ろ盾を失った範満は、駿河国人たちの支持も失い、盛時に攻められて自害に追い込まれた。こうして今川氏親は正式に7代当主として家督を相続することとなった。
小鹿範慶(おしか・のりよし ? ~ 1487)とは、駿河国の戦国武将である。小鹿範頼の子。兄に小鹿範満。
今川義忠の戦死により兄が駿府に入って当主代行を務めると、範慶が代わりに小鹿を統治する。
1487年、氏親を擁する伊勢盛時によって兄と共に今川館で自害に追い込まれた。
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最終更新:2023/06/09(金) 10:00
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