尼崎事件(あまがさきじけん)とは、2011年に発覚した連続殺人事件である。表記ゆれとして「尼崎連続変死殺人死体遺棄事件」「尼崎殺人死体遺棄事件」のタグが付けられた動画もある。報道では「尼崎連続変死事件」と呼ぶことが多い。
これは、この事件は99%殺人事件だと思われるのだが、極めて長期に渡る事件のため、決定的な証拠が失われる等した結果、「謎の死を遂げた」(変死)としか表現できないものが多数存在している為と思われる。その為この記事では「殺害」や「変死」の言葉は避けて単に尼崎事件とした。
※この記事は極めて暴力的かつ独善的な内容を含んでおりますので、閲覧の際には気をつけてご覧ください。また編集や掲示板書き込みも過熱しすぎず、深呼吸して落ち着いて行って頂きたいと思います。
無関係の一家が主犯の女により乗っ取られて、兵庫県尼崎市のいたって普通のマンションの一室に監禁され、虐待を受けていた事件である。事件は主犯のひとりの女によって引き起こされたもので、彼女に血縁者はほとんどいなかったが、気に入った人物を養子や嫁にすることで疑似的な「一家」を作り上げ、彼女に忠実なものは重用される一方、反抗的な態度を取った者は彼女の命令で暴行・虐待を受けた。
この事件は約25年間という長期間に渡って続いていたのが特徴的であり、その為事件関係者は非常に多く、17名逮捕、11名起訴、10名有罪、8名死亡(立件したのは6名)、3名行方不明となっている。中には乗っ取られた家の人物が主犯に気に入られ「一家」の一員となり、被害者から加害者に移るという事態も発生している。この為、事件関係者の関係図はとてつもなく複雑なものとなり、当時の報道においても説明が困難になる状況だった。
近隣住民などが警察へ連絡する事も多く、その数は50件にものぼると言われているが「一家」や乗っ取り先家族の家庭内の問題と判断されて刑事捜査に至らず、結果として犠牲者を増やしたため、事件後に兵庫県警と香川県警が謝罪している。
主犯の女は逮捕されてからまもなく留置場で自殺し、真相は闇の中になるかと思われた。だが多数の逮捕された共犯者がいたことと、女の逮捕と死によって支配・恐怖から解放された者たちが次々と口を開くようになったため、事件の内容自体は概ね明らかになった。
1948年生まれ。一連の事件の首謀者で「角田一家」の絶対的支配者。姓は「すみだ」と読み「つのだ」「かくた」ではない。
父は人材派遣を生業にしており、全国各地から集まった素性も知れない荒くれ者たちに対し、飴と鞭を使い分けて支配していたと言われており、美代子もその影響を大きく受けたと思われる。その為、気に入らない人物に対しては脅迫したり暴行・虐待を命じる一方、子供や孫を可愛がって懐かせることで事実上の人質とすることもあった。
様々な家に寄生して乗っ取っては、その資産を奪い取って生活していた。「一家」は皆無職であるにも関わらず、美代子は高級酒を買いあさって自慢するなど豪勢な暮らしをしていた。逮捕後に撮影された彼女の部屋は正に趣味の悪いゴテゴテの成金金持ちとでも言ったものだった。だが借金も多く抱えており、その豪勢さはハリボテだったようだ。また重度のパチンコ狂だったようで、他の「家族」と共に開店待ちの行列に並んでいる姿や連日パチンコにふける姿が多数目撃されている。恫喝して行列に割り込んだこともあったらしい。
そんなパチンコ屋通いの中、若いカップルとトラブルになって自宅軟禁した上に慰謝料を要求するという事件を起こしたが、相手の知り合いに現役暴力団員がいて逆に脅されると、一転して平身低頭に謝罪したというエピソードもあり、基本的に自分より弱い人間に近づいて高圧的に振舞っていた。
暴行・虐待は後述の李などが実行し、美代子はそれを命令するだけで、自分の手を汚すことはほとんど無かった(たまに暴行に加わったこともある)。逃亡した者に対しては非常に執念深く探し当てて連れ戻しており、逃げられたのは僅かしかいない。
養子を取る一方で、戸籍上では角田優太郎(懲役17年が確定)という息子がいるが、彼の実の母は三枝子である。
韓国籍の李正則の存在や、内縁の夫の姓が「鄭」という大陸系のものであるため、美代子も韓国・朝鮮に縁のある人間ではないかと邪推する者もいるが、特に証拠はない。
美代子の情報は極端に少なく、のち事件発覚・逮捕された当初、テレビが別人の写真を美代子だとして流してしまう事件も発生した。その為、警察が美代子の顔写真を公開するという異例の対応が取られた。
2011年11月4日に逮捕されるが、12月12日夜に留置場内で見張りの隙をつき、トレーナーの袖を使って自殺した。死後、書類送検。
1974年生まれ。在日韓国人で通名は角田正則。美代子からの通称は「マサ」。一連の事件中に美代子と出会ったことで「一家」に加わり、美代子の伯父と養子縁組することで美代子とは義理のいとこになった。元暴力団員で体重130キロの巨漢。美代子の忠実な暴力装置として数々の暴行を行った。
無期懲役が確定。
1953年生まれ。美代子の幼馴染で長く一緒に暮らしてきた。1998年に角田家に養子入りして美代子の義妹となる。美代子からはソープランドで働かされたり売春を強要されたりと金蔓としての扱いを受けていた。「一家」の金庫番役。事件中にマンションの所有者であるA家長男と結婚するが、形式的なものであったとされる。
懲役21年が確定。
1985年生まれ。D家の次女。事件前は普通の女子高生だったが、美代子が家を乗っ取りにかかると豹変し、彼女の忠実な片腕と化していった。美代子(実は三枝子)の息子・角田優太郎と恋愛結婚し2人の子を授かる。美代子は彼女を自分の後継者にしようと考えていたらしい。
だが夫の優太郎は幼少期から美代子に暴力を振るわれた事もあって、美代子の行動に嫌気がさして距離を置き始めていたともいわれており、逮捕時は夫婦でバーを営んでいた。
懲役23年が確定。
A家長男は10代の頃から美代子と知り合っており、家族のように扱われていた。しかしA家長男とA家長女が熊本へ逃亡したため美代子の怒りを買い、二人は熊本から連れ戻され、母と次男も含めた4人が美代子の家に同居させられ、暴行を受けた。
のちA家母が失踪する。が、実際には1987年頃に家族からの暴行で死亡しており、遺体は尼崎の海に捨てられたことが逮捕後に明らかになる。2014年に現場の捜索が行われたが、既に25年以上の時間が流れていた為、遺体が見つかることは無かった。殺人の時効が撤廃されたのは2010年なので、既に時効も成立していた。そのためこの件に関しては行方不明という扱いに終わった。
A家長男は尼崎市内の会社で働いており「一家」で唯一の定職者だったが、その収入は全て美代子のものとなった。
A家長男とA家次男は1997年にも熊本へ逃亡するが、またも美代子の目から逃れられず連れ戻されている。一方、A家長女は同年逃亡に成功したようで、以降の行方は不明である。
1998年、Bは伯母の葬儀を行っていた。ところがこの伯母は美代子の伯母でもあり、葬式には美代子も参列していた。葬式の間は何も起こらなかったが、葬儀が終わるとBたちに「葬儀の段取りが悪い」など様々ないちゃもんをつけてきた。そうして一族を集めると、暴力団との関係をちらつかせながら会議を繰り返すようになり、B家への支配力を強めていった。
更に美代子はB一族に互いに不満を言わせあい、それは暴力へとエスカレートしていった。特にBがターゲットとされ、息子たちに暴力を振るわれたり食事制限を課せられた結果、1999年にBは病死した。
美代子の介入は止まらず、Bの息子たちに退職を強要する、家を売らせる、借金をさせるといった行為が行われ、多額の金が美代子へと流れていった。この結果、Bの一族は西宮市の団地で集団生活することになる。また一方で美代子はBの孫たちを可愛がったため、孫たちが美代子に懐いてしまい、実質的な人質となってしまった。ただ、孫の一人(Bの長男の長男)は美代子の「家族会議」の最中に団地から飛び降りて死亡している。更に逃亡者が出ては連れ戻されて暴行という光景も繰り返された。
団地内で何か異常事態が起きている事は近隣住民の知ることとなり、住民が警察に通報することもあったが、家庭内の問題としてとりあってもらえなかった。Bの一族も報復を恐れて動けずにいた。そんな中で、Bの甥はこの状況から打開する方法を考えていた。甥は美代子に窃盗をすることを提案し、承諾を得ると窃盗行為を行った上で警察に自首し、その「首謀者」である美代子を逮捕させることに成功する。しかしBおよび孫の死に関しては、刑事捜査こそ行われたが事件性はないと判断された。美代子は窃盗罪で懲役3年執行猶予5年の有罪判決を受け、これによりB家は美代子の支配から脱却した。ところが、美代子の養子になっていた2人の孫のうち1人(Bの四男の三男)は養子縁組を解消せず、事件発覚まで美代子の下で暮らす事を選んだ。
彼が角田健太郎(懲役21年が確定)である。優太郎より年上なので、長男次男と説明される場合は健太郎が長男となる。
Cという人物は多額の借金を抱えていた。そんな折、中学の後輩である鄭頼太郎(懲役21年が確定)と再会するが、鄭は美代子の内縁の夫であった。やがてCの存在は美代子の知る事となり、2002年頃よりC、C弟、そしてCの義理の息子(元妻の連れ子)李正則の3人が美代子のマンションに住むことになった。そして例によってCは仕事を辞めさせられ、退職金が美代子の懐に入った。
2003年2月、血の繋がらない李を誰かに預けるという話が挙がると、Cの妹で高松市に嫁いでいたD妻が面倒を見る事になった。だがあらかじめ美代子は李に対し、D家に無理難題を要求して困らせるようにと密かに命令していた。その通りに李は暴れまわり、D家は美代子に李を引き取ってもらうよう懇願した。
これも全て美代子の計算通りであり、D家に対し怒り散らすと、C家一族ら10名程度を連れて高松へと乗り込んできた。美代子はD家の親族も集めさせた上で、李の面倒をみれなかった責任やCの借金を口実にD家に金銭を要求した。そして一族会議を始めると、D夫妻とC母、C妹の4人に責任を追及し、李らが4人に暴行を振るった。
C母は78歳の高齢にもかかわらず食事制限・長時間正座などの虐待を振るわれ、2003年3月に急死した。彼女の遺体は高松のD宅隣にある倉庫の地下に埋められ、事件が明らかになった後の2012年に発見されている。
次のターゲットはD妻で、その二人の娘も暴力に加担するようになった。この次女が後の角田瑠衣であり、完全に美代子に魅了され、高校も中退した。
D家は親戚を回るなどして、なんとか2000万円を確保して美代子に渡した。だが美代子の要求はそれでも収まらず、D夫婦は離婚させられ、その「慰謝料」(これもD夫が必死で親戚から借り集めた)も美代子が全額奪い取った。こうしてやりたい放題を尽くした美代子たちはようやく尼崎に帰って行った。D妻と娘2人は尼崎に引っ越し、D夫は高松に残った。
2003年5月、美代子がD夫に電話をかけ「D妻がだらしないから迎えに来い」と要求した。夫は言われるがままに尼崎へ行き、妻を高松へ連れ帰った。すると直後に美代子がDの娘2人を連れて再び高松に乗り込んできて「尼崎に行ったのに美代子への挨拶がない」という理由でD夫妻を暴行した。更に李やC一族もやってきてまたもや高松に居座り始めた。
こうして李らが中心となってD夫妻を暴行する日々が続いた。D夫の兄が心配してやってくると、美代子は彼を軟禁し、後に開放すると弟であるD夫に暴行を加えるよう命令した。ミイラ取りがミイラになるとはこのことだろうか……。
ここでもたびたび警察への通報が行われたが、瑠衣ら娘が暴行を行っていたり、D夫妻が親族から借金をしていることなどもあって、家庭内の問題として刑事事件とならず終わってしまう。
8月、D夫は監視の隙をついてD妻とD長女を逃がした。だが長女はすぐに見つかって連れ戻されてしまう。これがきっかけでD夫に対する暴行は更に激しいものになった。この状況で命の危機を感じたD夫は9月に逃亡する。暴力のターゲットである夫妻がいなくなれば美代子たちは帰るかもしれない、という希望を託しての行動だった。10月になって様子を見に戻ると、家には誰もいなくなっていた。美代子は娘たちとD夫の兄らを連れて尼崎に帰っていた。
成り行きから尼崎で同居することになってしまったD夫の兄は、2004年1月、度重なる虐待や暴行によって死亡した。彼の遺体はC母の家の地下に埋められた。この事件に関しては死因が特定できない等の理由で不起訴に終わっている。
2004年3月、D長女が逃亡に成功し、大阪で生活を始める。同年8月、D夫が家族の情報を得るために偽名を用いて尼崎へと移り潜伏生活を始める。これは美代子たちが逮捕されるまで続いた。同年、A家次男が逃亡し東京で生活を始める。
2005年3月。あれだけ金をむしり取っておきながら、美代子は約5000万の借金を抱えていた。そこでA家長男(当時、三枝子と結婚していた)の保険金殺人を思いつき、彼に自転車で対向車線の車に飛び込んで死ぬように命令する。李が監視役をつとめたが、A家長男は自殺できなかった。これに激怒した美代子は彼に制裁を下し、3日間の食事禁止と暴行が行われた。A家長男は道路の飛び出しは出来ないが、飛び降り自殺なら出来ると美代子に言質を取られる。
6月、「一家」は沖縄へ観光旅行に出かけた。そして遺品分けなどを行わせた末に、三枝子が写真撮影役となって崖の前に李ら一行が並び(美代子は写真に加わらず)、A家長男がその壁の後ろに隠された状態で飛び降り自殺をした。警察はこれを事故と判断。これで5000万円の保険金を得て、借金を完済させる。また、長男が持っていたマンションの所有権も三枝子に移った。
同じ頃、東京に逃亡していたA家次男が連れ戻される。2006年初頭、A家次男の紹介で仲島康司(懲役15年が確定)が同居生活に加わり、以降主に運転手役を務めることになる。また、のちに仲島はD長女と結婚している。
同年の暮れ、逃亡していたD長女が運転免許証の更新を行おうとしたところに李と瑠衣が現れて連れ戻される。この際、瑠衣が姉の捜索願を出していた事もあって、長女の友人たちが警察に連絡するも民事不介入とされ失敗に終わる。
2007年8月、Cが逃亡に成功。同年10月、A家次男とC弟がまたも逃亡に成功して東京へ移る。
2007年12月、4年前に夫の手引きで逃亡していたD妻は和歌山県のホテルで住み込み仲居として働いていたが、美代子に居場所を突き止められ、ホテルの社員寮に乱入した美代子たちに連れ戻される。翌2008年3月、D妻は李の暴行で意識不明となり、3ヶ月後に死亡した。
2008年6月、D長女は夫の仲島と共に逃亡に成功して沖縄へと移った。だが翌月に逃走先を突き止められ連れ戻される。この頃美代子らは、マンション最上階である8階のバルコニーに悪名高き「監禁小屋」と呼ばれる粗末な小屋を作っており、中には監視カメラが設置され、外からは見えないようにフェンスを設置していた。2人は半袖シャツ姿で監禁小屋に入れられるが、仲島は美代子への忠誠を改めて誓った事で許された。一方D長女は暴行を加えられ、12月、小屋の中で低体温症となって死亡した。彼女の遺体はC母宅の地下に埋められた。
紹介する機会が無かったため唐突になるが、角田邸には以前より家政婦のような女性が同居していた(便宜上Gと呼ぶ)。美代子の兄と交際していた事から交流が始まり、長年に渡る付き合いであった。ところがGが優太郎・瑠衣夫妻の子供(美代子の孫)に暴言を吐いたことで謹慎処分に置かれる。だが謹慎を破って無断外出したことで完全に美代子の怒りを買い、D長女(この時はまだ生存していた)が監禁されていた監禁小屋に入れられて暴行を加えられ、食事もろくに与えられず、僅か1週間ほどで衰弱死した。Gの遺体もC母宅の地下に埋められた。この事件に関してはGが持病を抱えていたこともあって傷害致死罪を認められず、監禁罪のみで立件されている。
2009年夏、東京に逃亡していたA家次男が居場所を知られて連れ戻される。美代子らは共に逃亡したC弟も連行するつもりだったが、彼の友人が口を割らなかったため、引き続き潜伏することに成功したが、翌2010年に彼はがんで病死した。
2009年4月、新たな金蔓を探していた美代子は、阪神電鉄に「ベビーカーが電車のドアに挟まった」とクレームをつけてきた。これに対応したのがEとその上司だったが、美代子は李を話し合いの場に置いて「この子は元ヤクザだから怒ると何をするか分からないぞ」などと脅しながら、飴と鞭を巧く使い分けた結果、Eは美代子の支配下に入れられていった。やがてEは妻(F次女)や子供も含めた家族ぐるみで美代子との付き合いが始まった。
Eが「将来は喫茶店でもやりたい」と発言すると、その夢を実現させるという口実でEに退職を迫るようになり、遂には職場にまで乗り込んできたため、Eは阪神電鉄を退職した。他にも消費者金融から借金をさせ、退職金もろとも全て美代子が分捕った。更にいくつか掴んでいたEの弱みを妻にばらすなどして、2010年10月、離婚に追い込んだ。
その後も美代子の干渉はやまず、Eは美代子宅の隣のマンションに引っ越しさせられた。以降、F(母親)やF家長女も巻き込んで「家族会議」を連日開き、子供の養育をどうするかなどが話し合われた。会議は前例のようにターゲット(今回はEとF次女)に対して親族間で暴行を加え、時には無関係な李などからも暴行される。更に美代子は以前のB家のように、Eの娘ふたりに対しては甘く接し、やがて娘が美代子に懐くようになると美代子のマンションに娘たちを移住させ、実質的な人質を取った。
そして2011年6月、Eの住居にE、F、F長女、F次女、Eの次女が強引に移り住まされ、ワンルームマンションで5人が生活することになった。Eの長女は美代子に気に入られて美代子宅に残された。
こうした出来事の間も美代子宅では虐待・暴行は続いており、2011年7月、ひょんなことから美代子の怒りを買ったA家次男が「監禁小屋」に入れられた。美代子、李、瑠衣らによる暴行が連日続いた結果、監禁からわずか2日でA家次男は死亡した。彼の遺体はドラム缶にセメント漬けにして岡山県備前市の海に捨てられ、事件が明らかになった2012年に発見されている。
E宅でも美代子による厳しい生活制限が敷かれ、睡眠・食事・トイレが美代子の許可制となり、連日家族内で罵り合わせては暴力へ発展させるようになっていた。こうして家族関係は崩壊していった。やがて母親であるFがメインターゲットとなり、暴力がエスカレートした結果、2011年9月11日にFは死亡した。彼女の遺体もドラム缶にコンクリート詰めにされ、貸倉庫に放置された。事件が明らかになった2011年11月に遺体が発見された。
次のターゲットはF家長女であった。激しい暴行の末に、テープで手足を縛りあげマンションに閉じ込められた。が、監視役が寝ている隙を突いて自力でテープを破ると、マンション2階の窓から飛び降りて逃亡した。2011年11月3日、F家長女は大阪市の交番に駆け込むと起こった事を話し、証言の信憑性が高いと判断した大阪府警は兵庫県警にこの話を連絡し、警察が遂に重い腰を上げることになる。
一方美代子はF家長女が逃亡したことで事件が発覚する事を恐れていた。そこでEに全ての罪をなすりつけることにして、無理矢理Eに遺書を書かせると、F家次女、Eの次女と共に車で海に飛び降り自殺させるよう命じた。2011年11月4日、自殺すると決めた3人は車に乗り、監視役の美代子と李が別の車に乗って、一行はとあるスーパーの駐車場にいた。が、ここにEたち3人の行方を捜していた兵庫県警が現れ、ギリギリのタイミングで3人を保護する一方、F家長女への傷害容疑でEと角田美代子が逮捕された。
証言から早速F家母の遺体が発見された。この死体遺棄容疑でF家の面々と李正則が逮捕された。翌年、「一家」の面々が次々と殺人罪で再逮捕されると、潜伏生活を送っていたD夫が検察に赴いて事件の経緯を説明した。
翌2012年8月、逮捕されていた三枝子と瑠衣がこれまでの殺人や傷害を自白し始めた。その後、犯人たちの自白によってC母宅の地下からD長女、D夫の兄、Gの3人の遺体が発見された。続いて備前でドラム缶詰めにされていたA家次男の遺体が発見された。更に高松に埋められていたC母の遺体も発見された。
だが2012年12月12日、監視と同房2人に気付かれないようにしてトレーナーの袖で首を絞め、角田美代子は自殺した。享年64歳。一説では自分が築き上げた「角田一家」の面々が、美代子の逮捕後に次々と自白したことで「一家」が崩壊していった事に精神的ショックを受けたとも言われる。散々他の家族同士に殺し合いをさせたくせに、自分の「家族」たちが次々と自分を裏切って証言し始めると絶望して自殺に至るという、最期まで自己保身に走った身勝手で独善的な人物であったと言えよう。しかしこれで美代子を法の下で裁くことは出来なくなり、一連の事件では書類送検という扱いになった。
2013年、一連の事件に関わった「角田一家」の構成員は全員逮捕され、死亡した美代子以外は裁判にかけられた。
E家・F家の人物は家族への暴行・殺人などで有罪となっているが、同時に美代子による被害者でもあるため、ここでは匿名に留めている。Gは死後、特に警察から罪に問われていないので、被害者として匿名としている。
掲示板
12 ななしのよっしん
2023/01/01(日) 05:29:08 ID: AMAA02iqzo
13 ななしのよっしん
2023/02/05(日) 18:43:44 ID: KIixWqUBSJ
美代子ゲロブサイクやんけw
成金趣味より先に顔面整形しとけよ
ゲロブサイクからブサイクにはなれたろうに
そのうえ史上トップクラスのガイキチ犯罪者ってもう救いよう無いじゃん
死んで正解だネ☺
14 ななしのよっしん
2023/07/01(土) 19:00:15 ID: lJadNG+zzu
類似的に見られる北九州の松永がパッと見人畜無害そうな顔してるのと比べると見るからに大悪党のツラだもんな
だからこそ松永みたいな肉体関係から入るって手口が使えないだろうし相手の警戒心も高いだろうから何故こんな事件を起こせたのか余計謎が深まる
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/10(水) 01:00
最終更新:2025/12/10(水) 01:00
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