「屠岸賈」(とがん・か ? ~ BC583)とは、中国の春秋時代の晋の国の臣であり、敵対する晋の一大勢力「趙」氏を滅ぼす手前まで追い込みながらも、密かに育てられた趙氏の生き残り「趙武」の反撃を受けて滅んだ敵キャラ。
趙盾の「絶えて後良し(一度絶えた後に繁栄をむかえる)」という予知夢を実現させてしまったうっかりさんでもある。
趙武による復讐劇は、中国の伝統演劇「趙氏孤児」として上演されている。
人の言うことに耳を貸さずに自滅した晋霊公に引き立てられ、晋霊公が趙氏一族の長・趙盾を殺そうと画策して失敗し、趙穿の逆襲によって暗殺されると、後を継いだ晋成公と、子の晋景公に仕え、晋景公の時に刑罰や警察を担当する司寇となった。
警察長官と裁判官を併せたっぽい立場になった屠岸賈は、ろくでもない君主ではあったが自分を引き立ててくれて晋霊公(諡号の「霊」は最低ランクの諡号)を弑逆した犯人探しを始め、元宰相で晋霊公に殺されそうになった事のある趙盾に疑いをかけ、
趙盾は、事件を知らなかったといえ犯人一味の頭目です。
臣下の身で君を弑しながら、その子孫が朝廷にいるようでは、 どうして罪を懲らしめることができましょう。
誅したいと思います。
と言って、晋景公の許可も得ずにすでに亡くなっていた趙盾の一族を滅ぼさんとしていた。
趙盾は都の外遠くにおり、当時先君(晋成公)も趙盾に罪はないと思われたので、誅殺されなかったのです。
今その子を誅すのは先君のご意向に背いて、みだりに誅するものです。
また君にも申し上げないで処置するのは、君を無視するものです
※要するに
と言って、暴走してんじゃねーぞと反論すると同時に、韓厥は趙盾の子・趙朔に逃げるよう勧めた。
しかし趙朔は、
あなた(韓厥)が必ず趙氏の祀りを絶やさないというのなら、わたしは殺されても恨みはない。
と言って逃亡を拒否し、晋景公の許可を得ずに勝手に軍を動かした屠岸賈によって私邸にて襲撃を受けて殺された。
※司馬遷の史記では、趙朔と共に、趙盾の弟の趙同(原同)・趙括(屏括)・趙嬰斉(楼嬰)ら趙一族を族滅したとされているが、趙朔以外の三人は、
趙朔の未亡人・趙荘姫と密通した趙嬰斉(楼嬰)が趙同(原同)・趙括(屏括)により追放される
↓
愛人を追放された復讐を目論んだ趙荘姫の讒言により、趙同(原同)・趙括(屏括)が殺される
しかし趙朔の妻・趙荘姫は、晋景公の姉であった為に難を逃れ、そのお腹の宿っていた趙朔の子を産んだ。
趙荘姫が産み落とした趙朔の子の存在を知った屠岸賈は、赤子を殺そうとしたが、趙朔の食客であった公孫杵臼の犠牲(別の赤子と共に山に逃げて時間を稼ぐ役を担当して死ぬ)と、同じく趙朔の食客だった程嬰により逃げ延びて立派に育てられた赤子は、趙氏の再度の繁栄を築く「趙武」となった。
大業の後の遂げざる者祟りをなす
と出た為、この事を問われた韓厥は、
それは趙氏でありましょう。
成公のときまで代々功労を立てましたが、趙氏の宗家は滅ぼされ、国人はこれを哀しんでおります。
わが君には、このことをご配慮さないますように。
と言い、趙氏の生き残りである趙武を晋景公に紹介して、趙氏の復興を願い出た。
晋景公は趙氏の祟りを信じたのか韓厥の言を聞き入れて趙武を引き立て、諸将の助力を得た趙武に攻められた屠岸賈は、一族もろとも滅ぼされた。
趙武により復活した趙氏は、助力した韓厥の韓氏と友好的な関係を続け、それは後世の趙毋卹の時に、晋の国を趙・韓・魏に分割した際も、国と国の交わりとなった。
※その他「屠岸賈」 の詳細についてはWikipedia・・・・に記事はありませんでした。
▼全中国奸臣連合、略して全奸連の未登録武将として司馬遷と史記の解説を担当。
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最終更新:2024/04/24(水) 01:00
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