山名時氏(1303~1371)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
山名氏とは新田義重の息子、山名義範を祖とする一族で、治承・寿永の乱の際に本家に先んじて源頼朝に従ったことから、里見氏と同様独立した御家人として扱われた存在である。その後の歴史から足利氏から養子として入ったのでは…ともいわれているが、たぶんそんなことはない。
時氏は山名政氏の息子として生まれ、母方が上杉重房の娘であったため、足利尊氏、足利直義兄弟とも縁戚であった。そのためか1333年の元弘の乱の段階から足利尊氏に従っており、1335年の中先代の乱、後醍醐天皇への離反とその後の戦い、1336年の多々良浜の戦いと湊川の戦い、といった具合に完全に足利軍の一武将として室町幕府の成立まで戦い抜いていった。
その勲功から1337年には因幡の守護に、1340年の塩冶高貞の討伐によってさらに丹波の守護に、1345年には侍所頭人と、幕府でも重んじられる存在となったのである。
しかし、観応の擾乱が起きると1351年以降足利直義派として行動し、1352年に直義が亡くなった後も、若狭守護職をめぐって京都を出奔した長男の山名師義とともに、九州の足利直冬を奉じて南朝に降ることになる。1353年には高師詮を破り楠木正儀、石塔頼房とともに京都を制圧、1355年にも再度京都を制圧するなど南朝方の主力として活動したのである。
山陰・山陽戦線では伯耆、因幡、隠岐を制圧。1361年には赤松貞範を破って美作を、さらに西に転戦して石見・備中・備前を蚕食し、但馬守護・仁木頼勝を攻め、広大な範囲を勢力圏としたのである。1363年、足利義詮はこの勢力拡大を見過ごせず、一色詮光を派遣して帰順を打診。時氏は伯耆、丹波、因幡、美作、丹後の安堵を条件に12年ぶりに幕府に復帰した。さらに翌年には出雲と隠岐の守護職も得、「多く所領を持たんと思はば、只御敵にこそなるばかりけれ」と『太平記』に批判的に書かれるほど勢力を拡大させたのであった。
こうして山名氏と大内氏を帰順させた室町幕府はようやく安定した運営を可能にし、1368年には細川頼之によって仁木義長、今川了俊、佐々木氏頼、赤松義則とともに足利義満の評定衆に選ばれている。引付衆頭人、再度の侍所頭人を歴任した彼はまさしく幕府の重鎮として活動した一方、1370年には楠木正儀の蜂起を細川頼之とともに敗走させるなど武の面でも依然健在なことを示した。
しかし1370年についに山名師義に家督を譲って引退し、紀伊、美作、但馬、伯耆、備後、丹波、和泉、丹後、出雲、隠岐、因幡の11カ国を一門全体で領有する「六分一殿」と称される最大勢力となったのを見届けると、そのまま亡くなったのである。
もっともその後何が起きたかは想像に難くないだろう…。
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最終更新:2024/09/08(日) 18:00
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