岩田聡(1959年12月6日 - 2015年7月11日)とは、任天堂の4代目社長である。
通称「いわっち」「電脳部長」「いわたくん」等。「直接!」
2002年から、2015年に在任のまま逝去するまで、任天堂の代表取締役社長を務めた。
任天堂社長としてはニンテンドーDS、Wiiの2大ヒット商品を世に送り出し、同社を大きく成長させたことで知られる。自ら登場して社の製品を“直接!”解説する広報動画「ニンテンドーダイレクト」や、開発スタッフへのインタビューをこれまた自ら行う「社長が訊く」シリーズなど、社の顔として意欲的に活動する名物社長としてファンから人気を集めていた。
任天堂カンファレンスやゲーム関連の展示会などで、よくプレゼンテーションを行っていた。プレゼンの巧さには定評があり、中継直後のニコニコ動画を初めとして、国内外のサイトで好評を得ている。
それ以外にも、DeNAとの資本提携、健康事業への参入など、任天堂としての新たな試みを多く進めた。
社長就任以前はHAL研究所の社長・スタッフとして、開発に参加していた。優秀なプログラマーとして知られており、開発に関する逸話がいくつも存在する。
なお、現場での開発への参加意欲は社長就任後も強く、「できることならプログラムを書いていたい」と発言したこともある。
北海道札幌市出身。
高校在学中に、米ヒューレット・パッカード社のプログラミングも出来る電卓を購入し、プログラミングにのめり込んだ。その電卓で作ったゲームを日本のヒューレット・パッカードの代理店に送ったところ、驚いたその会社がいろんなものを岩田少年に送ってくれたという。
大学への入学祝いに加え、さらにローンを組んで米コモドール社のPET2001というコンピュータを購入し、西武百貨店池袋店にあった売り場に入り浸るようになる。そこで出会った「同好の士」と共にコモドール・ジャパンのオフィスにも出入りするようになり、米コモドール社のVIC-1001(VIC-20)向けにゲーム(多くはアーケードの人気作のパ○リ)を開発し、その技術力のあまりの高さに関係者を驚かせた。
1980年になると、百貨店の売り場の店員がHAL研究所を設立し、岩田青年も誘われたためアルバイトとして入社する。(先輩社員が居ないため)エースプログラマとして奮闘し、コモドール・ジャパンから仕事を請け負ってコモドールブランドのパッケージソフトを多数開発した。
大学卒業後はそのままHAL研究所に正社員として入社する。そして卒業の翌年の1983年に任天堂からファミリーコンピュータが発売されると、会社の出資者で任天堂と取引のある関係者を通じて任天堂に自らを売り込みに行った。岩田青年の技量を認めた任天堂はHAL研究所に開発を依頼し、初期の「ピンボール」や「ゴルフ」の開発にあたった。特に85年発売の「バルーンファイト」の移植は元のアーケード版の開発スタッフをも感嘆させ、当時任天堂に訪れていた岩田を尋ねたという。
ちなみに、米コモドール社のコンピュータはファミリーコンピュータと同じMOS6502を採用しており、MOS6502に精通した岩田青年は特に重用されたようだ(この当時の日本の8bit市場は、米ザイログ社のZ80が圧倒的なシェアを占めており、米モトローラ社のMC6809が追随する状況で、MOS6502のシェアはごく僅かしかなかった。ただし、北米では米コモドール社の他、米アップル社のApple IIでも採用されるなど、高いシェアを誇っていた)。
なおこの頃のHAL研究所は5名のみの零細スタジオで、プログラミングの他、デザインも販売もスタジオの掃除まで何でもやっていたという。
その後、同社はバブル崩壊の余波を受けて経営難に陥り、取引先の任天堂の支援を受けることになった。
このとき、当時の任天堂社長だった山内溥が岩田に目をつけたと言われる。彼の経営の才覚を見抜いた山内は、当時開発課長だった岩田が社長となることを支援の条件としたという。
1992年、岩田はこうしてHAL研究所の社長に就任した。
それまで経営とは縁遠いキャリアを積んでいた岩田だったが、桜井政博らの才能を見出し、『星のカービィ』や『大乱闘スマッシュブラザーズ』などのヒット作を送り出すことに成功。社の経営を建て直した。
当時から自ら率先してPRやプロモーション活動を行っていたほか、社長になってからも、時々プログラミングにも参加していた。
有名なものでは、長期に渡る開発の難航で中止寸前の状態に陥っていたSFC『MOTHER2』に参加した際、開発に当たっていた糸井重里を始めとするスタッフ達に対し、
「このままでは出来ないと思います。今あるものを使って完成させるなら2年かかります。
しかし、私に1から作らせてくれるというのなら、半年で完成させます。どちらにします?」
と提案。全てのプログラムを組み直し言葉通り半年で完成させ、更に完成度を高めるブラッシュアップを半年行い『MOTHER2』が発売されたという逸話がある。
なおこのときの縁から、『MOTHER』シリーズのディレクターである糸井重里とは長年に渡って親交していた。
「ほぼ日刊イトイ新聞」の立ち上げにも参加し、“電脳部長”という肩書きも持っている。
糸井によれば、「糸井重里事務所内に置かれている、パソコンの設置・設定。電源コードやLANケーブルの配線に至るまで全部、電脳部長がやってくれた」とのこと。
なお、この項の大幅加筆も、ほぼ日刊イトイ新聞の社長に学べ!を参考にしている。
1997年から『ポケットモンスター赤・緑』北米版ローカライズを担当(ポケモン開発に関わったクリーチャーズ立ち上げに携わり同社の役員を務めていたのが縁とされる)、更に『ポケットモンスター金・銀』『ポケモンスタジアム』開発に協力、HAL研究所でも『ポケモンスナップ』を開発。この縁は任天堂入社後も株式会社ポケモン立ち上げ(2000年にポケモンセンター株式会社から改称)を始め様々な企業との折衝など多岐にわたる。
1998年任天堂オールスターバトルアクションである『大乱闘スマッシュブラザーズ』を開発。当初はオリジナルキャラで展開する予定だったが、知名度及びニンテンドー64の普及のために任天堂のキャラクターを使用する事を提案、任天堂(主に宮本茂)との打ち合わせのため、使用権承認前にプロトタイプ(この時点でマリオやドンキー、フォックスやサムスを採用していたという)を作成してプレゼンテーションを行っている。
1999年HAL研究所の経営立て直し完了と時を同じくして社長を退任、相談役になる。
HAL研究所での経営手腕は山内にも高く評価され、2000年に任天堂に取締役経営企画室長として入社。文字通り任天堂商品の企画及び経営に参画するという大抜擢だった。
2002年5月、山内に後継者として指名され入社後わずか2年、42歳という若さで任天堂4代目社長に就任した。
このとき、山内に呼ばれて、マンツーマンで3時間ほど経営哲学を説かれたという。
社長の血縁でも任天堂の生え抜きでもなく、40代前半という異例のキャリアと若さでの就任に驚くユーザーもいたが、当時の任天堂はライバルである『プレイステーション2』の大ヒットと自社ハード『ゲームキューブ』の立ち上げ失敗によって、ゲーム業界の中心的立場をすっかりソニーに譲ってしまっていたため、そもそもあまり話題になっていなかった。
岩田は、当時世界のゲーム人口が微減傾向にあったことも踏まえ、「ヘビーユーザーにターゲットを絞っていては、いずれ市場が死んでいくのでは」と考えた(これはHAL研究所時代からずっと危惧していたという)。そしてその対応策として、「それまでゲームに触れたことのない人達を新たに取り込む」ために、直感的に操作できる新たなゲーム機の開発を進めた。
2004年、タッチパネルを含めた2画面という斬新なコンセプトの携帯機・『ニンテンドーDS』を発売し、これがゲーム史上に残る大ヒットを記録。最終的には全世界で1億5000万台以上を売り上げたDSは、任天堂を再びゲーム市場の中心へと返り咲かせた。
「直感的で新鮮な操作」というコンセプトは据え置きハードにも受け継がれた。
2006年に発売された『Wii』は、リモコン型コントローラという新たな操作体系を取り入れ、やはり大ヒット。こちらも世界で累計1億台を超える売り上げを記録した。
この頃、「ほぼ日刊イトイ新聞」にもよく登場していた。
新商品のPRなど「社長」として来訪する事もあるが、またある時は「仕事が終わって帰る途中、たまたま(事務所の)近くを通ったので・・(笑)」という可愛らしい理由で、糸井重里事務所に『糸井氏の友達』としてプライベートで立ち寄っており、氏の穏和な人柄を垣間見る事が出来る。
2011年には『ニンテンドー3DS』、2012年には『WiiU』を、大ヒットしたDS、Wiiの後継機種としてそれぞれ発売した。
この頃から、上述した「ニンテンドーダイレクト」「社長が訊く」などの広報活動を精力的に行うようになった。
「直接!」という力強い言葉や「トゥイッター」などの独特の発音、親しみやすく丁寧な解説がファンに人気となり、任天堂の名物コンテンツとなっていった。
しかし、新ハードはいずれも、立ち上がりは順調ではなかった。
特に、後に国内最速の普及速度を記録するまでになった3DSはともかくとして、WiiUは想定した販売台数を下回り続けた。結果としてこの苦戦は、岩田が退任するまで続いた。
スマートフォンの爆発的普及によりいわゆるライトユーザーがスマホゲームに移行していったことなどから、任天堂は戦略の転換を迫られていた。
そこで岩田はまず、「ユーザーのQOL(クオリティ・オブ・ライフ)向上に寄与する」ことが「娯楽」であると再定義し、健康事業への参入を発表した。
山内前社長が「異業種には絶対に参入しない」ことを厳命しており、実際にホテル経営などで失敗した過去を持つ任天堂としては、これは異例の決断であり、多くのユーザーを驚かせた。
また、2015年3月には、携帯電話向けゲームの大手であるDeNAとの資本提携を発表。
スマートフォンへの参入を本格的に進めることを発表し、これもまたユーザーに驚きを与えた。
なおこのとき、新ハード「NX」(後のNintendoSWITCH)の存在を電撃的に発表している。このとき岩田は、「ゲーム機事業への情熱を任天堂は失っておらず、むしろこれからもゲーム機事業を軸にやっていくという意思表明」と語っていた。
このように精力的に活動していた岩田だが、2014年頃に体調を崩していた。
後に胆管腫瘍と明らかにしており、同年6月には手術を受けた。8月頃には社長業に復帰したが、それまでのふくよかな体格から一転して痩せた姿となっていた。
2015年7月11日、胆管腫瘍により、京都市内の病院で逝去した。享年55。
任天堂から発表があったのは、13日のことであった。
6月の株主総会では続投が承認されたばかりで、ニンテンドーダイレクトや同月の『社長が訊く』などにも復帰していたため、多くのユーザーが衝撃を受けた。
マスメディアの取材によれば、7月に入って突然体調を崩したという。
任天堂の社長として数々の功績を残した岩田の死は世界に衝撃を与えた。海外のマスメディアも氏の訃報を伝え、多くの著名人が哀悼の意を表明した。その影響ぶりは7月13日午前のYahoo!の最新つぶやき(Twitter)ランキングの殆どが氏に関係するワードが羅列する程であった。
そして、直近のヒット作『Splatoon』のMiiverseへ投稿された絵やメッセージの数々や、ハッシュタグ「#ThankYouIwata」が示す通り、偉大な才能との別れを惜しむ追悼の声ばかりでなく、むしろ多くの傑作ゲームを送り出した事に対しての暖かい感謝の声が溢れていた。
自ら広告塔として活躍してきた岩田が、ただの世界的企業の経営者としてではなく、数々の楽しいゲームを作り出し続けてきた「任天堂」の象徴的存在として非常に多くの人々から深く愛されてきたことが表されている。その長年の業界への貢献から英国の「Golden Joystick Awards 2015」で特別功労賞が追贈された(同賞を受賞している人物として小島秀夫氏がいる)
岩田の在任中の逝去により、任天堂の代表取締役社長の座が約2ヶ月間空席(その間は宮本茂、竹田玄洋の両氏が業務を代行)となっていたが、後任として君島達己氏の代表取締役社長への就任が発表された。
君島氏は株式会社ポケモンやNOAといった関連企業の代表取締役を経験し、任天堂内でも重職に就いていた人材だが、その経歴は銀行出身の財務・経営畑であり、山内・岩田といった先代社長とはタイプが異なっている(このため、代表取締役専務である竹田玄洋が技術フェロー、宮本茂がクリエイティブフェローと言う役職に就くことで組織運営のサポートをすることになった)。
とはいえ先述した新事業や、「故 岩田聡氏とともに 今、」の一文と共に発表された「Pokémon GO」などの在任中は未発表だったものも含め、当面の任天堂の展開は岩田が示した路線に乗ったものであると考えられる。
岩田社長の抜けた穴はあまりに大きいが、任天堂という社に込められた岩田社長の魂を絶やさずにゲームの持つ価値の維持・創造が続いていくことを願うばかりである。
1959年12月6日生まれ。
1980年 - 大学在学中に、HAL研究所の設立に参加。プログラマとしてゲームを開発した。
1982年 - 東京工業大学情報工学科を卒業。
1992年 - HAL研究所再建のために代表取締役社長に就任。
1998年 - HAL研究所社長を退任、同社相談役に就任。
2000年 - 任天堂入社。取締役企画経営室長に就任。
2002年 - 任天堂代表取締役社長に就任。
2013年 - Nintendo of AmericaのCEOに就任(兼任)。
2015年 - 胆管腫瘍により逝去。享年55。
社長就任以後は公式サイトやマスコミサイトを見てもらった方がよいだろう。
1999年3月 - 樹の上の秘密基地「ニンテンドウオールスター! 大乱闘スマッシュブラザーズ」の情報・産地直送! - ほぼ日刊イトイ新聞
1999年6月 - 樹の上の秘密基地「ポケモンスナップ」の情報・産地直送! - ほぼ日刊イトイ新聞
2000年8月 - 『MOTHER 3』の開発が中止になったことについての糸井重里・岩田聡・宮本茂の座談会 - ほぼ日刊イトイ新聞
2003年7月 - 東京ゲームショウ2003基調講演「ファミコンから20年:ゲーム産業の今とこれから」 - Impress
2004年10月 - ニンテンドーDS体験会「NINTENDO DS Preview!」DSのタッチスクリーンによる直感的な操作。 - Impress
2005年3月 - Game Developers Conference 2005任天堂岩田聡氏基調講演「Heart of a Gamer」 - Impress ITmedia
2005年4月 - 社長に学べ ! 任天堂岩田聡さん - ほぼ日刊イトイ新聞
2005年9月 - 東京ゲームショウ2005基調講演「ゲーム人口の拡大に向けて ~ゲーム産業に今、何が必要か~」Wiiリモコン発表。 - ITmedia Impress
2005年10月 - ニンテンドーDS カンファレンス 2005秋 - ITmedia
2006年2月 - ニンテンドーDS カンファレンス!2006.春 - ITmedia
2006年3月 - Game Developers Conference 2006基調講演「Disrupting Development」- ITmedia
2006年5月 - E3 2006 任天堂メディアブリーフィング - ITmedia
2006年12月 - 任天堂 岩田聡社長インタビュー - Impress
2007年8月 - みんなでご飯を食べながら話を聞いたのだ。 - ほぼ日刊イトイ新聞
2007年10月 - 任天堂カンファレンス 2007.秋 - ITmedia
2008年4月 - 星空の下の仕事観 - ほぼ日刊イトイ新聞
2008年8月 - 三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな ~任天堂社長 岩田聡氏~ - 中小企業診断士 和田伸午のおもしろビジネス放談
2008年10月 - 任天堂カンファレンス 2008.秋 - ITmedia
2008年11月 - 適切な大きさの問題さえ生まれれば。 - ほぼ日刊イトイ新聞
2009年3月 - Game Developers Conference 2009基調講演 - CNET Impress
2009年4月 - DSで生活が便利になる――任天堂・岩田聡社長と宮本茂専務、ゲーム機の現在と未来を語る
2009年5月 - 岩田聡・任天堂社長――日本人が面白いと思うものは世界で見ても「面白い」! - 東洋経済
ニコニコ動画においては、カンファレンスやプレゼンテーション、動画版社長が訊く(通称圧迫面接)での登場が主。また、近年ではニンテンドー3DSカンファレンスやニンテンドーダイレクトなどがニコニコ生放送で放映されていた。
上記の通りすごい人物であるが故に、動画やtwitterにおいて、一部の言動や扮装、被り物などが視聴者のツボに入ったりなどすると、ネタにされてしまいがちである。最近ではかなり意図的にネタを仕込んでいた気がする。
本人曰く、「「自分はかぶりものをする人」と思われているようだ」とのこと。
以下にその例を紹介する。
また、ニンテンドー3DSカンファレンスで公開された鉄拳3D プライムエディションの紹介動画を承認したのも岩田本人であるようだ。
2011年10月21日から始まったニンテンドーダイレクトは、任天堂のゲーム情報を「直 接 !」紹介することを目的としている(詳しくは該当記事参照)。
このニンテンドーダイレクトにおいて、岩田氏が両手を顔の前に揃えて出しながら、「直 接 !」と強調して言いはじめたことから、視聴者からは「持ちネタ」「(ニンテンドー)ダイレクトアタック」と言われるようになった。
これに関しては任天堂もノリノリでネタにしている模様。以下にその例を示す。
もはや芸人の一発ギャグ状態だが、普通の文面で登場する「直接」も「直 接 !」とあからさまに強調する事もあるため、一部からは「しつこい」「ウザったい」という不評の声も挙がっている。
そのためか、11月27日の「ちょっと Nintendo Direct Newスーパーマリオブラザーズ2」では初めて「直 接 !」を言わずにダイレクトを終了した。
関連動画は「直 接 !」をまとめた動画もあるので参照されたし。
なお、晩年――2015年4月以降のニンテンドーダイレクトでは、自ら指名したと言う、広報部の「森本さん」に解説役を一部引き継いでいた。
当人曰く「55歳のおっさんが毎回すべてのソフトを紹介し続けるやり方を今後も漫然と続けていていいのか(原文ママ)」とのことだったが、体調を崩し手術を受けた後のことであったため、一時は体調問題によるダイレクト引退も騒がれた。実際、5月31日に放送されたダイレクトでは森本さんのみの登場となった。
しかし、その後本人が直々に否定し、あくまで森本さんと岩田の2人体制への移行であり、これからもダイレクトに参加する意思があることを改めて表明していた。
残念ながら引退の噂は思わぬ形で現実になってしまったが、少なくともニンテンドーダイレクトが氏の逝去と共に終了することはなさそうである。
掲示板
2089 ななしのよっしん
2024/09/09(月) 10:20:34 ID: eOsOjxy1In
カラテカ矢部太郎さんによるE3 2004の岩田聡社長インタビュー。
【映像】
https://
2090 ななしのよっしん
2024/10/12(土) 12:19:37 ID: eOsOjxy1In
「桜井政博のゲームを作るには」岩田さんのこと
【ソース】(2024.10.11)
https://
https://
2091 ななしのよっしん
2024/12/02(月) 00:54:52 ID: eOsOjxy1In
今日でニンテンドーDSは発売20周年。
岩田聡社長がE3 2004でニンテンドーDSについてインタビューを受けたときの動画がこちら(海外の動画)
https://
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/07(土) 14:00
最終更新:2024/12/07(土) 14:00
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