島津斉彬(1809~1858)とは、江戸時代後期から幕末の大名で、薩摩藩の第11代藩主、島津氏第28代当主である。
一橋慶喜(後の徳川慶喜)を徳川家定の後継者に据えようとしていた、一橋派の一人。
天保期以降の明君の一人とされる父・島津斉興と調所広郷の清濁併せた財政再建策が実りを上げていったのを引き継ぎ、曾祖父・島津重豪が威信を高め、作り上げた様々な人脈を駆使して、薩摩藩を雄藩に仕立て上げていった。
しかし「二つ頭」とも称されたカリスマである彼の早すぎる死は、薩摩藩にいったんは混乱をもたらしたものの、わずか7年にすぎなかった彼の治世にまかれた種は次第に芽吹いていったのである。
源頼朝から薩摩・大隅・日向の守護職が島津忠久に与えられて以来、島津氏は代々南九州を治め、豊臣秀吉の九州征伐で日向は南部のみになるものの、所領の維持に成功し、関ヶ原の戦いでの敗戦もほとんど影響することはなかった。さらに江戸時代初期には琉球国を事実上支配下におき、外様大名の中でもかなりの勢力となったのである。
そして島津氏はかつての主君・近衛氏と縁戚関係となり、将軍である徳川氏とも密接な関係を結んだ。その最大のものが島津重豪の代に、彼の娘・茂姫が徳川家斉と婚姻したことである。安永5年(1776年)の二人の婚約は家斉がまだ一橋家にいたころに行われていたため、前例のない外様大名の娘との婚姻は、家斉が将軍・徳川家治の養子になった際反対があったものの、5代将軍徳川綱吉の養女で島津継豊の妻・竹姫の遺言でまとまったのである。
こうして寛政元年(1789年)に将軍の岳父となった島津重豪は権勢を誇り、次々と他の大名たちがこぞって縁戚になろうとした。こうして南部家、丹羽家、佐竹家、戸沢家、戸田家、桑名松平家、柳沢家、松山松平家、奥平家、黒田家といった血縁グループが出来上がったのである。また島津斉彬の母方も鳥取藩主池田治道の娘・弥姫で、姉妹は毛利家、鍋島家、牧野家、秋月家、に嫁ぎ、斉彬とともに公武合体を推進する阿部正弘や伊達宗城とも縁戚にあった。また斉彬の正室は一橋斉敦の娘・英姫でそのいとこは松平春嶽であった。
と、ここまで将軍縁戚島津家の華々しい躍進を見てきたのだが、島津重豪の将軍家岳父としての地位と、開化政策には支出を伴った。藩の財政は極めて悪化し、重豪の息子・島津斉宣は樺山主税、秩父太郎を登用して改革を行おうとした。ところが重豪の路線を否定した彼らの改革は、重豪を激怒させ、樺山らは切腹、文化6年(1809年)には斉宣も隠居させられたのである。
こうして後を継いだのが、斉彬の父・島津斉興である。息子を隠居させたとはいえ、重豪自身も財政悪化は認識しており、斉興を補佐して財政再建をもくろんだが、行き詰ってしまう。そんなさなか登場したのが調所広郷であり、斉興と広郷の清濁交えた財政再建策は成功。広郷は家老に就任したのであった。そしてそんなさなか、文化6年(1809年)に斉彬は生まれたのである。
文化6年(1809年)に生まれた島津斉彬は、伊達家にも連なる、池田治道の娘・弥姫に直接育てられ、和漢の学問に通じていた母の英才教育を受けた。そのため文武両道の斉彬は、「二つ頭」と呼ばれるほど、世間の評判となったのである。
しかし島津斉興と調所広郷が財政再建を行っている間、西欧の日本周辺への進出が進んでいた。斉興、広郷ともにこの危険性を認識し、洋式砲術の採用や、中村製薬所の設立など、近代化・工業化を進め始めたのである。しかし斉彬はこれをより推進させようとし、藩財政を第一に掲げている父たちとは相いれない存在となっていた。また従三位への昇進をもくろむ斉興は、ただでさえ意見の相違がある斉彬に家督委譲をためらうようになったのである。
そんなさなか老中・阿部正弘は斉彬を藩主にするために暗躍する。彼は広郷が行っていた琉球の抜け荷を材料に、斉興をおろそうとしたのである。斉彬がこれをためらううちに、広郷が詰め腹を切り、斉興は責任を逃れ、広郷に近い島津将曹らが登用されたままであった。
そして弘化4年(1847年)、島津斉興は斉彬の異母弟・島津久光を名代にし、翌年には久光が国で指揮を執るようになる。このことは斉彬擁立派には久光の母・お遊羅の方に操られた斉興が、斉彬ではなく久光を擁立しようと映ったのである。さらに斉興が琉球に来航した外国人たちを呪詛しようとしたことは、お遊羅の方が斉彬一門を呪殺しようとしたという噂を広めることとなった。
そのことは斉彬の息子・寛之助、篤之助が相次いで病死したことで、斉彬派の近藤隆左衛門の暴走を招く。結果、近藤や高崎五郎右衛門らが切腹に追い込まれ、島津壱岐をはじめとした斉彬派が処分される。嘉永朋党事件、つまりお遊羅騒動である。
この結果斉彬派の井上経徳、木村仲之丞らは藩内で事態を打破できないと判断。福岡藩主・黒田斉溥に助けを求める。斉溥は阿部正弘、伊達宗城に状況を報告し、阿部や南部信順らが斉興に隠居を勧める。これに渋った斉興だが、徳川家慶の「朱衣肩衝」の贈与でついに観念し、島津斉彬が藩主となったのである。
斉彬本人は、お遊羅騒動の鎮静化を図り、島津久光も重用したが、西郷隆盛ら一般の藩士には両者が対立しており、お遊羅の方や久光に良い印象を抱けない、という禍根を残してしまう結果となったのである。
こうして嘉永4年(1851年)に島津斉彬は薩摩に帰国した。藩主としての多忙の傍ら、市来四郎らに語ったように、軍備の近代化・強化を図ったのである。その際たるものが、集成館事業である。維新後の富国強兵を思わせる、軍備・文化面の改革はほぼ独力で行われ、カッテンディーケをはじめとするオランダ人たちを驚かせるものであった。
しかし斉彬が藩を安定させつつある一方、嘉永6年(1853年)にペリーが来航した。斉彬は阿部正弘らのルートから、あらかじめ察知していたようである。老中・阿部政弘はあらかじめ対策を練ろうとするも、実現できず、外交問題に対して挙国一致体制を築こうとしたことで、外様大名が幕政に関与するようになった。斉彬は攘夷は無謀だと考えており、まず準備を整えたうえで、諸外国と交わっていこうとしたのである。こうして阿部正弘、松平春嶽、徳川斉昭らとともに公武合体路線を推進しようとしたのだ。
しかし、ここで将軍継嗣問題が生じる。斉彬らは血筋が近くても幼い徳川慶福(徳川家茂)ではなく、賢明な徳川慶喜を将軍位につけようとし、井伊直弼、松平忠固を中心とした譜代大名と対立したのである。しかし現在では将軍・徳川家定と斉彬の養女・篤姫との婚礼そのものは、たまたま6年越しの計画がこの時期に実を結んだというだけで、将軍継嗣問題とは無関係だと考えられている。
一方老中首座が阿部正弘から堀田正睦に変わり、まもなく正弘は亡くなってしまう。このことは一橋派にとっては大打撃であり、斉彬は西郷隆盛らを使って、他の同志たちと連絡を密にしていった。隆盛は国に帰った斉彬に代わり、橋本左内、幾島らと、篤姫を通して大奥工作を行っていったが実を結ばなかった。
一方一橋派と南紀派の争いは、京に移り朝廷工作を行うものになっていった。島津斉彬や橋本左内は青蓮院宮(久邇宮朝彦親王)、近衛忠煕、三条実万らに、南紀派の長野義言は九条尚忠、鷹司政通に働きかけ、朝廷は通商条約締結を認めない結論を下したのだ。
そして、このことで孤立した関白・九条尚忠は継嗣問題に関しては、独断で徳川慶喜を後継者にする三条件を削除した内勅にし、一橋派の朝廷工作は失敗したのである。この間、堀田正睦が留守のうち、松平忠固らは井伊直弼を大老にし、直弼は勅許なしで条約の調印、徳川家茂の将軍就任を行う。この結果、幕府と朝廷の関係が悪化した一方で、一橋派は敗北したのであった。
島津斉彬はこうした内乱を危惧していった。そこで西郷隆盛に密命を下す。この内容は不明だが、斉彬自身が兵を率いて上京するものであるとみなされている。これは安政の大獄などで不安定な情勢の中、内乱状態を防ごうとしたものとされているようだ。
しかし、この計画は失敗に終わった。松平春嶽らが処分された4日後の安政5年(1858年)7月9日に斉彬は激しい腹痛に襲われ、16日には息を引き取ったのである。これは釣った魚を食べたことによるコレラ、または腸炎ビブリオの感染だとみなされている。ともあれ、事前に島津久光に、嫡男・哲丸がまだ幼いため、島津久光本人かその息子の島津忠義のどちらかを島津斉興と相談のうえで後継にしてほしい、という遺言を残していった。この結果島津忠義が藩主、島津斉興が後見役となる新体制が築かれたのである。
しかしカリスマ性で事業を進めるワンマンだった斉彬の路線は、その死後行き詰まり、藩政は混乱し、集成館事業などは縮小されていったのである。西郷隆盛は月照を連れて藩で匿おうとしたが、藩の対応に失望し、二人は鹿児島湾に身を投げた。
だが、島津斉興の死後、島津久光が島津忠義の後見となり、「順聖院様御深志」である島津斉彬路線の継続を目指そうとした。こうして久光は公武合体路線を進めていき、時代は幕末に突入する。
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