島津歳久 単語

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島津歳久@天下布武(GA)

「島津歳久」(しまづ としひさ 1537 ~ 1592)とは、戦国時代薩摩の武将で、兄弟直系チート軍団の中核島津四兄弟の三男を務める島津一の裏方さんであり、役を引き立てる為にかかす事の出来ない脇役であり、存在感の薄さと不幸定評のある安産神様

通称は左衛門尉を名のった事から「」。え!小早川秀秋そいつ。

概要

島津貴久の三男に生まれる。長島津義久、次島津義弘、末島津家久島津四兄弟を構成する人物の一人であるが、な役兄弟達の裏方か参謀か副将だった為(初陣島津義弘の副将)、々しい成績を残す兄弟達にべて史料もそれほど残っていないと言うの薄さに定評がある

※歳久自身の筆による文書が存在せず、歳久について記録された文書が残るのみ。それらも史料によっては兄弟一存在が忘れ去れている事もあると言う不遇っぷり。しかも逸話については幕末西郷隆盛時にその名が出てくる事の方が有名だったりする。

で当島津義久助けて九州定に尽するも、豊臣秀吉の前にが屈して降後、秀吉関連でいろいろと不幸な事が続き、最期は臣が加わっていた兼の「九州族程度が半島出兵で兵が整わないのに乗じて秀吉の首とって下をとる」と言う謀な叛乱の責任をとれと言う秀吉からの言いがかりに近い沙汰から島津を守る為、

わしは病いに侵され、(太殿下に伺することができなかった。
しかし、(太殿下に対し何の含むところはない。
今、ご不審を被り、お安泰のため切腹せんとす
しかし、来どもは承し難いらしい。こうなってはやむを得ない。
しかし、これは太守(義久)に向かってを引くのではない。
しも来たちも武勇の本分をもって暫時の合戦に励むものである。

との遺書を残して自害した。

  ~辞世の句

(せいさ)めが のありかを人問わば いざの末も知られず

(せいさ)とは、島津歳久の号

※その他「島津歳久」の詳細は、wikipediaの該当記事exit参照の事。

兄弟々しさにべて地味な面は否めないが、めないとされている島津義久のかわりに宴席で盛り上げ役にする等、強大な勢に必須な縁の下の持ちが存在した事も、島津四兄弟による島津氏の勢拡大があったものと考えられる。

歳久は智謀担当?

薩摩君と讃えられる祖島津忠良からは、

始終のを察する知計が並なし

と評されている。

※義久は「三州の総大将たるの材徳自ら備わり」、義は「雄武英略を以って傑出し」、久は「軍法戦術に妙を得たり」と評している。

これについては二つの説が考えられている。

一つは、言葉そのままにうけとった「歳久は智謀担当」であったとする説。

他の兄弟が、政治に優れる島津義久、戦線での総大将たる島津義弘、稀代の戦術たる島津家久と、「信長の野望」で言うところの「政治」「武勇」「統率」のそれぞれのにはまっていることや、数少ない史料でも副将を中心に務めていて献策していたであろう事等から、島津義久のフィクサーとして智謀を発揮した将として紹介される。

しかし、豊臣秀吉が降後に、秀吉の輿に矢をいかける等、智謀担当にしては軽率行動もとっている。

二つは、並のレベルの知略をもたない猪突猛進な武将であったとする説。

これは、上記の豊臣秀吉に対する軽率行動や、そもそも島津忠良が存命の間は、特に智謀の士としての活躍はなく、島津義久から感状をうける程の武勇を発揮していた記録が残る為、「戦闘担当はもういるからお前もっと謀略の方をなんとかしとけ」といわれたのではないかとするものである。

実際、義久が担当した日向宮崎県)方面は、々しい活躍の記録が残っているが、歳久が担当した肥後(熊本)方面での活躍は敵である甲斐宗運の不敗伝説の方が有名な程であり、秀吉に対する行為も、秀吉との戦いで養子を失った遺恨によるものとする説もあり、薩摩隼人らしい武者であったのではないかとしている。

しかし、秀吉に対する軽はずみな行為は、秀吉先を島津本家から自分に向けさせる為、且つ、何かあった時は自分が犠牲になることで義久の身代わりとなって(直系の一族であり、その首の価値も高い)島津を存続させる事を想定した智謀の士らしいコンセプトも考えられる為、ゲームバランス的にも智謀担当がベストな立ち位置で良いのではとも思われる。

と言うか「信長の野望」では智謀に活路を見出さないと他の兄弟チートすぎてただでさえ薄い存在意義がさらに薄まってしまうわけで・・・

歳久不幸伝説

歳久には不幸なところがある。

1つは、他の兄弟があまりにもすごいエピソード満載すぎて立たない事。まぁ裏方さんだから本人的には問題ないのかもしれないが。

1つは、跡継ぎに恵まれず、養子も秀吉との戦いで失い、それが元で秀吉の輿を狙撃すると言う軽率行動に向かわせ、果てには自らの首を差し出す破になった事。まぁ別の養子がを存続させたから本人的には問題ないのかもしれないが。

1つは、後年は大病を患って半身不随となった事。これは、秀吉の輿を狙撃した実績から、臣が兼の叛乱に加担した事を口実にその首を差し出す様に秀吉から義久へ沙汰が出た際に、「朝鮮に行ってるなら無罪」と書かれていたものの、病気で渡できなかった為、首を差し出すしかなくなってしまう事に繋がっている。まぁ本人としては、権手に入れて舞い上がるにも程がある状態のに対する叛乱と言うが潰される危険を秘めた状況において、島津家久はすでに亡く、島津義弘は、総帥たる島津義久のかわりに東奔西走する状態であった為、動くことの出来ない役立たずな自分が最期の奉を遂げることができて満足だったのかもしれないが。

また歳久の悲劇的な最期が、豊臣秀吉とその後を継いだ徳川家康に対する薩摩隼人達の反抗の思いを刻む結果になったのではとも考えられ、それが幕末薩摩大活躍状態への布石だったとするならば、まさに智謀の士であったと言えるのではないだろうかと思われる。

そして、「信長の野望シリーズで、初登場時からオリジナルの顔グラがあった他の兄弟達に対して、しばらくの間流用顔だったことも不幸伝説の一つと言えるかもしれない。なお近作は全武将に対してオリジナルの顔グラが当てられている為、歳久の顔グラもオリジナルのものになっている。

そして、安産の神様へ

島津歳久の最大にして最期の個人エピソードが、での自害である。

秀吉の沙汰で臣が参加した叛乱の責任をとって首を差し出す事となり、島津義久もしぶったものの最期は追手を差し向けるという絶体絶命な状況に陥った歳久だったが、すでにこのとき大病を患って半身不随であり、自害するにもを握ることも出来ず、傍らの石にその身をぶつけて自害しようとしたが、歳久に対する尊敬の念を持つ従者は元より、義久から追手として差し向けられた者達も本気で討つ気がかったのか、なかなか首を討とうとするものが現れず、苦痛を味わったと伝えられている。

※歳久の遺書でも、義久に対して反抗する為ではなく、単に討ち取られるでは臣が納得しないから交戦するが、を引こうとするわけではないとしており、従者も追手もその意を重々に理解していたものと考えられる。

そしてこの苦痛を味わう最中に歳久は、

女性子供を産むとき、死ぬような痛みを味わう
自分の死後はその痛みを少しでも和らげてやりたいものだ。

と言ったとされており、「戦の神様」であると共に「安産神様」として平松神社られている。

平松神社は、歳久最期の地に義久が建立した心岳寺が明治期に毀釈して出来た神社である。

歳久の首が討たれた時、歳久の従者達は論の事、追手の者達も全て武器を投げ出し、地面にして泣き出し、従者達は皆その場で殉死して歳久の後を追ったと言われる。

一兵卒と共に囲炉裏を囲んだ義ハートマン軍曹の様な叱励で連戦連勝に導いた久、そして最期まで慕われた歳久。

臣との間に暖かいエピソードが残るのも、薩摩隼人の精強さを物語っているのかもしれない。

そして明治5年。別々に埋葬されていた秀吉の元に送られて京都された首と胴体が一箇所に埋葬され現在に至っている。

戦国大戦では

翔ぶが如くけよ」

2コスト・武5と武は物足りない。しかし統率9、兵・撃・魅と特技3つならば、仕方ないところではある。
計略は「翔ぶが如く」。武は僅かしか上がらない物の、移動速度が大きく上がる采配。
総力戦向きな義久の「島津の采配」とは異なり、この計略は移動速度上昇による奇襲戦法に向いている。
ただし島津である隊は迎撃されるため、使用後は細心の注意で部隊を展開させる必要がある。

なお島津四兄弟では一番コストの低い2コス。他がデッキの核を成せる計略持ちな中、彼は単独ではやや決め手に欠ける。コストが低めという点で、メイン計略の裏の手に入れておくといい仕事をするかもしれない。

「この命で…島津未来を守ってみせる!」

その後、データ専用武将として1枚追加された。計略は「いざの末」。
その必要士気は10で、現状ではSS羽柴秀吉の「下への采配」、上杉憲政の「関東管領職譲渡」と共に最も士気を使う計略の一つである。

その効果は士気の高さ相応で、撤退している島津の武将を全員復活させ、更に武と移動速度を上げる。
士気こそ食うが効果そのものは宝+α級。本人のスペックも采配持ちにしては高く、更に隊の味方が多い島津にとって重宝する足軽でもある。

しかし代償として計略を使うと本人は撤退してしまう。だが敵とのぶつかり合いでこちらが壊滅していても歳久と士気さえ残っていれば即座にカウンター態勢が整うというのは驚異で、登場直後から島津メジャーデッキとして数えられた。
その後は計略を若干下方修正され歳久以外全滅カウンターで相手殲滅して攻というのはしにくくなった。だが相変わらず再起宝+αの働きをするためめていると痛いを見るだろう。

関連動画

ニコニコ動画内では、コーエーの「信長の野望シリーズ等の歴史SLGにて稀に登場する。

▼「信長の野望 革新」のランキング九州編。(祖と次と末チート
どの部門でもトップ5入りは逃したものの、安定して使える値の為かベスト10入りを果たした

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける島津歳久の力一覧。 副将に最適です。

軍事 内政
群雄伝(S1) 戦闘 政治 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 72 政治 69 76 野望 58 教養 63
覇王 采配 79 戦闘 73 智謀 58 政治 62 野望 63
戦才 146(A) 智才 116(B) 政才 132(B) 野望
将星 戦闘 71 智謀 68 政治 66
烈風 采配 71 戦闘 67 智謀 74 政治 60
世記 采配 63 智謀 62 政治 49 野望 32
統率 66 知略 68 政治 45
下創世 統率 66 知略 66 政治 45 教養 55
革新 統率 77 武勇 72 知略 85 政治 51
統率 73 武勇 58 知略 93 政治 82
創造 創造 79 武勇 67 知略 90 政治 78

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  • 33  

    2021/06/22(火) 20:38:36 ID: zEda1v7Wrt

    妙円寺もそうだけど、そんなに郷土の人間からされ慕われた人物の菩提寺なら、ぶち壊さずに残しておけよ

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  • 34 ななしのよっしん

    2023/08/17(木) 00:58:03 ID: 7cNaJmaho7

    薩摩の寺は一つの例外もなく全てぶっこわされたからな
    地元の人間にどうこうできる話じゃない

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  • 35 ななしのよっしん

    2024/04/13(土) 11:57:33 ID: KAmS+68LAU

    一4兄弟で当時天下統一に王手を掛けてた秀吉とのの差を認めて和を唱えたってだけでも一定以上の智将に値するとは思うけど、最後まで抗った理由は本人に聞かない限り永遠のだよね
    部下や養子を討たれた事への復讐心が一番だったのか、それとも秀吉と戦うを選んだ以上無条件しない&自分が時勢を読めない道化を演じる事で秀吉の敵対心を向け降した達を助ける為の大博打だったのか
    個人的には4兄弟で一番性格的には気さくでからしてみれば話しかけやすい人だったんじゃないかなと思う、なのも含めてそういうエピソードも多いし

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