川村玄碩(かわむら げんせき 1670~1734)とは、国分盛重の玄孫、伊達政宗の孫を騙った奸謀の徒である。
宮城郡七北田村出身の医者。詐称名は国分右兵衛盛春。
1722年(享保7年6月)、国分盛春を名乗る者が一族を伴って現れ、仙台藩に対して「母の遺言により自分こそが国分氏の正統にふさわしいので相応の御取立あるべし」と訴えた。
※国分盛重は1596年(慶長元年)に佐竹氏の元へ出奔し、仙台での家名は絶えていた。
盛春は証拠として父・盛信を国分盛重の孫、母・萬鶴を伊達政宗の落胤とする国分氏累代の系図を示し、国分氏が信仰していた白山神社の御神体と称する短刀、政宗の朱印状や神文などを添えて藩へ提出する。
時の藩主・伊達吉村はこれを重大事項とし、松木左一郎理景(まつき まさかげ)、佐々布八郎左衛門康景(さそう やすかげ)、黒澤文右衛門定矩(くろさわ さだのり)の3名に命じて真偽を調査させた。
3人の家臣は百方詮索を尽くして12年もの月日をかけ、証拠を集めた。
その結果、前述の主張は全て詐称、捏造で、本来の名は川村玄碩、母は土民の娘であるとの結論に至る。
仙台藩はこれを大逆に等しき罪と断じ、1734年(享保19年9月23日)、玄碩を札の辻(仙台芭蕉の辻)において3日間晒した(縛り上げ、民衆の見せしめにした)のち上七北田で磔刑に処した。享年65。
また玄碩とともに提訴に及んでいた一族の内、弟・川村庄太夫は網地島(石巻市)の網地浜へ、長男・川村彦九郎は同長渡浜へ遠島、次男・川村彦之丞は永牢(終身刑)、娘婿・富田平右衛門は改易の処分となった。
辞世「よしあしの 夢のうき世を 見果てつゝ いまこそかへる もとのまことに」
後世仙台藩の人々は、江戸で同時期に将軍・徳川吉宗の落胤を騙って浪人を集め、死罪に処せられた天一坊になぞらえて、この事件を仙台天一坊事件と呼称した。
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最終更新:2024/03/29(金) 16:00
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