平忠度(1144~1184)とは、平安時代末期に活躍した武将である。
右兵衛佐、伯耆守などを経て正四位下薩摩守に至るが、傍流で若年だった彼は公卿に列した兄たちに比べて昇進が遅れたようだ。しかし歌道のみならず武勇に優れ、治承・寿永の乱では大将軍、副将軍として各地を転戦している。
1180年の宇治橋合戦では源頼政を戦死させ、そのまま三井寺を攻めた。平維盛の源氏追討軍には副将軍として東国に向かうも、富士川の戦いで退却したため活躍できずに終わった。しかし墨俣川の戦いでは源行家軍に大勝利をおさめる。1183年の北陸道への出陣では大敗を喫し、帰洛した後丹波路に向かうが無勢のためやむなく引き返している。
その後平家の都落ちに従うが、この時和歌の師匠である藤原俊成に自信の歌を託し、『千載和歌集』に読み人知らずとして彼の歌が挿入されたことが伝わっている。
『平家物語』によると一ノ谷の戦いで搦手の大将軍としてのぞみ、源氏方の岡部忠澄と組み、彼を組み伏せたすきに忠澄の童に右腕を切られ、死を覚悟して十念を唱える最中首を斬られた。名乗りをあげなかったため箙に縫い付けてあった和歌によって、彼が平忠度であることが確認され、人々の涙を誘ったという。このように後世彼は、『平家物語』や能「忠度」、「俊成忠度」によって歌人としてのイメージが強く印象付けられていったのであった。
神戸市には忠度塚(腕塚)、胴塚、明石市には腕塚神社、忠度塚があるほか埼玉県深谷市の清心寺にも忠度腕塚がある。
なお彼の官職「薩摩守」であるが、彼の名前が「ただのり」であるために、無賃乗車を指す隠語として昔は用いられていたらしい。
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最終更新:2024/04/24(水) 18:00
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