平清盛単語

タイラノキヨモリ

1.6千文字の記事
掲示板をみる(72)
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE
  • ほめる(1)
  •  
  •  
  •  
  •  
  • その他

平清盛(たいらの きよもり / 1118~1181)とは、平安時代末期政治家・武将である。

同名の大河ドラマについては平清盛(大河ドラマ)を参照。

概要

忠盛の長男として生まれる。1153年、・忠盛の病没によって督を継ぎ、平家の棟梁となる。1156年の保元の乱後白河天皇方に付き勝利1159年の平治の乱ライバル源義朝を破り、平家一族の武門の地位を高める。1167年に武士として初めて太政大臣に就任するが、翌年重病となり、快癒した後に出した。

当初は後白河法皇密な協体制を築き、・徳子を後白河法皇の皇子・高倉天皇がせて外戚関係となり、間に生まれた安徳天皇の外祖となっては更に権勢をふるった。しかし、徐々に平家の勢増大を警するようになった法皇と対立を深め、以仁王の反乱を機に再起を挙げた源氏との戦いが始まる中、マラリアと思われる熱病に倒れ、1181年に数え64歳で病没。そのわずか4年後、平家一族は壇ノの戦いで滅亡した。

詳細はウィキペディアを参照。exit

後世の評価

社会の成立において重要な功績を残した人物にもかかわらず、一般的な清盛の印は芳しくない。その最大の原因は、「平家物語」でおごる平家は久しからずの代名詞とも言えるような悪人とされてしまい、そのイメージが定着してしまったことにある。また、源平合戦においては最終的に「源氏=勝者、平氏=敗者」となったことで、敗れた側の平氏に関する史料は散乱し、勝者である源氏方により不当な評価をされて貶められたのも大きい。

元々平家物語法師が口伝でり継いだものを数十年経て軍記物語としてまとめたものなので、フィクションや誇も多く、文学的価値は高くとも歴史史料としては信憑性に欠けるところがある。例えば、孫の資盛が藤原基房に恥辱を受けたことに対して報復した話が平家物語にあるが、実際に報復したのは(平家物語では諫める役回りの)子の重盛である。歴史的評価の高い英雄ながら、長らく物語などで悪役に位置づけられていた点では、三国志曹操に通じるものがあるだろう。

出生の謎

表向きには忠盛の長男とされる清盛だが、生前からその誕生には様々な噂が立っていた。最も有名なのは白河法皇の落胤説であり、法皇の寵だった園女御もしくはその近者をもらい受けた忠盛が、清盛の母親となる人物が既に法皇の子を妊娠していたのを承知の上で、後を継がせたというものである。

なぜこのような説が生まれたのかというと、清盛の朝廷における出世のスピード・忠盛や祖・正盛とべものにならない程かったからと言われている。但し、落胤説への異論も多く、大河ドラマ「平清盛」の時代考を務める本郷和人はこの説を否定している。

幻の都・福原

伊勢平氏は忠盛の代から、大輪田泊(現在神戸港)を拠点に(南)との交易を行っていた。日貿易である。教科書ではあまりれることはないが、あくまで国家間の交流だった遣唐使以上に、民間で交易が行われた日貿易が日本に与えたは計り知れない。平氏が急速に勢を拡大した背景には、日貿易で獲得した大な利益によるところも大きいのである。

1180年、清盛は大輪田泊に福原を作り、遷都を行った。その理由としては、院や寺社勢が強い平安京を離れ、自分たちの本拠地に移すことでそのを削ごうとしたからである。しかし公家たちの反発が強く、以仁王の反乱など社会情勢が不安になったこともあって、1年も経たずに平安京に戻ることとなる。翌年、清盛は病に倒れてこの世を去るが、東大寺焼き討ちの仏罰源頼朝をはじめとする源氏の裏切りに苦しめられながら絶命した「平家物語」の描かれ方と異なり、新しき都へのを打ち砕かれた挫折による失意こそが彼の死期をめたのかもしれない。

関連商品

関連項目

この記事を編集する

掲示板

  • 70ななしのよっしん

    2022/04/10(日) 12:02:28 ID: IJYk8m0CJr

    俺達が生きてるこの世界が言わば清盛してた世界ってことだよな。貨幣経済で、世界と貿易して。厳島神社という広島が誇る観光地、世界遺産も後世に残した。時代がすぎたよな。武政治も兼ね備えたカリスマだから、清盛が亡くなったら平家崩壊してしまうわな。

  • 71ななしのよっしん

    2022/04/15(金) 10:05:15 ID: rT6RKOLZEc

    清盛最大の失策は、一門の若手育成のシステム構築が出来なかったことじゃないかな。

    とはいえ、後白河天皇に付いたり、その後高倉天皇に付いて二頭体制を生き残ったり、更にその後また後白河法皇に付いて、んで離れて、しかもそこには他の貴族達や当時は巨大権だった寺社勢の相手もしながらっつークッッッソ面倒な政争を繰り広げて(ついでに言えば、よく非難されるの徳子を入内させた件についても、後白河法皇との協調路線で少なくとも院は了承。面くないのは摂関を筆頭にした貴族達)。

    んで福原で日貿易を大々的に行うためのインフラ整備やら取り決めやら厳島神社建立やら。

    そんなことを成り上がりながらやってたら、冒頭の若手育成なんて手が回るわけがねえのよな。
    だでまぁ強いて言うなら、清盛息子達、他一門衆が多忙な天才棟梁をきちんと支えてあげられなかったのが敗因じゃねえかなって。

  • 72ななしのよっしん

    2022/04/17(日) 22:37:57 ID: nkTnHZL/hF

    清盛が生きてるうちに決定的な勝利を実現できて、次代は平和である…という前提に立つなら、宗盛は決して悪い二代じゃない
    現実そうならなかったのがなぜかはまあ割と明らかで、だから坂東側の勢清盛頼朝を助命したような事は絶対にせず、敗者は死者しか存在してはいけないという態度を貫いた

おすすめトレンド

急上昇ワード改

最終更新:2022/05/20(金) 13:00

ほめられた記事

最終更新:2022/05/20(金) 13:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP