平頼盛(1132?~1186)とは、平安時代末期に活躍した武将である。
平忠盛と藤原宗兼の娘藤原宗子(池禅尼)の間に生まれた子で、忠盛の五男。生年は『公卿補任』に混乱があり、正確には不明。平家盛の同母弟。通称池殿、池大納言で、彼の一門を池家と呼ぶ。
妻は俊寛の姉妹で八条院女房の大納言局。息子は平保盛、平光盛。
1146年に皇后宮権少進に任じられる、保元の乱には池禅尼の進言で清盛に協力することになり、正五位下常陸介として参加。乱後安芸守となり、三河守の時に平治の乱が起きる。『愚管抄』には「誠ニタタカイハシラリケルハアリケレ」と評されている通り、平重盛とともに主力を担い、平家重代の太刀「抜丸」で熊手を切り落としたなどの逸話が『平治物語』に記されている。
その時の勲功で以後、太皇太后宮亮、修理大夫などを経て1165年には太宰少弐となり現地に赴任した。そして1166年に公卿に列する。その昇進具合は兄の平経盛、平教盛よりも先んじており、正妻の子としての立場を反映したものである。
その結果、長兄・平清盛と対立とまではいかなくても、彼の立場を脅かす潜在的な危険因子という関係となる。1168年に諸職を一度解官され、、翌年には復帰し一門内の位置を与えられていくが、1179年、つまり治承三年の政変で再び解官されている。
これによって完全に池家は清盛に従属する一門となり、その軍事力は利用され、以仁王の挙兵の際若宮の身柄を確保するために八条院の使者となったり、福原遷都の際は邸宅が一時的な内裏となったりした。そして1183年に権大納言となる。
しかし、清盛の死後彼は動く。1183年7月の平家の都落ちの際池家は離脱、そのまま10月には鎌倉の源頼朝の下につくのであった。平家内に潜在的に存在した内部対立がついに形となって表れたのである。そして頼朝と対面後帰洛し1184年に没官領返付を保証され、権大納言にも復帰。その所領は池大納言家領として送伝されていった。しかし1185年病により出家し翌年に亡くなった。1190年に頼朝が上洛した際六波羅新御亭は彼の邸宅の跡に建てられており、両者は親しい関係を結んでいたようだ。
彼の子であった平保盛、平光盛などは公卿となり、孫の平頼清までは公卿補任に載っているものの、彼の系統もまたやがて歴史の表舞台から消えていった。
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最終更新:2024/04/20(土) 11:00
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