庄為資(しょう・ためすけ 生没年不詳)とは、戦国時代の武将である。
備中国人、備中守護代。備中松山城を奪い取り庄氏の全盛期を築くが、毛利元就の支援を受けた三村家親の前に敗北した。
「荘」とも書く。
庄氏は児玉党の旗頭を務めた家柄で、宗家が「本庄」を、分家・庶家が「庄」を名乗った。備中の領地は源平合戦での活躍で得たもので猿掛城を本拠地とする国人勢力であった。細川氏の下、備中守護代となる。
1491年、庄元資が守護・細川勝久に対して反乱を起こし、備中国を巻き込む戦乱を起こす。備中における戦国時代の幕開けであった。
為資は元資の子ではなく、分家の北家の人間であったが養子となって勢力を継承した。元資は1502年死去。
1507年に大内義興が足利義稙を奉じて上洛するとこれに従っている。しかしその後は尼子経久に接近していくことになる。
1533年、為資は大内方・上野氏の拠点備中松山城を攻め落とし、これを本拠とした。猿掛城は次男(?)・穂田実近に与えられた。また為資の弟は植木氏に養子入りしており(植木藤資)、備中に一大勢力を築き上げた。この頃備中守を名乗る。まさに絶頂期である。1538年頃の備中はほぼ親尼子勢力で占められていた。
しかしこれに対して勢力を争う三村家親が毛利元就と結び、反撃に出る。為資が頼みとする尼子氏の援軍も、新宮党粛清(1554年)、晴久急死(1561年)などの混乱もあって期待できず、1561年、備中松山城は三村の手に落ち、為資の子・庄高資は降伏する。そして家親の長男・元祐を為資(あるいは穂田実近)の養子とすることで和睦した。
庄元祐が庄氏を継ぐが、1568年には高資が宇喜多直家に降るなどして混乱が続いた。元祐は1571年、乱戦の中討死したとも、1575年の備中兵乱で実家の三村氏に味方して討死したとも言われる。
備中兵乱が起こると毛利・宇喜多側に味方し、天敵三村氏を滅ぼす。高資の子・庄勝資には高釣部城が与えられたが、やがて討死した。子孫は帰農したという。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
嵐世記 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 59 | 知略 | 56 | 政治 | 34 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
天道 | 統率 | 58 | 武勇 | 23 | 知略 | 70 | 政治 | 56 | ||||||||
創造 | 統率 | 59 | 武勇 | 38 | 知略 | 66 | 政治 | 55 | ||||||||
大志 | 統率 | 57 | 武勇 | 38 | 知略 | 66 | 内政 | 55 | 外政 | 60 |
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最終更新:2024/04/20(土) 10:00
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