廖立とは、三国志に登場する人物である。
字は公淵。豫荊州武陵郡臨沅県(湖南省常徳市)の出身。 劉備が荊州牧となった時に召しだされ、二十代で長沙太守に抜擢された。諸葛亮は孫権からの手紙に「龐統と廖立は楚の良才で功業を補佐し興隆できる人物」と評価している。
215年(建安20年)に劉備と孫権の関係が悪化し、孫権配下の呂蒙が荊州三郡(長沙・零陵・桂陽)を襲撃すると廖立は劉備の元に逃亡する。劉備は廖立を深く咎めず巴郡大守に任命した。
やがて219年(建安24年)に劉備が漢中王になると廖立は侍中となり、劉禅が即位すると長水校尉となった。
廖立は自分の才能は諸葛亮に次ぐと自負しており、李厳らより下の閑職に就いていたことが不満だった(廖立が官位を上げてほしいと諸葛亮に言って「李厳ですら卿でないのに」と拒否された話がある)。
ある時、蒋琬と李邵が訪ねてくると廖立は今までの不満をぶちまけ、自分のことは棚に上げて劉備や関羽の荊州失陥、同僚である文恭・向朗・郭攸之・王連の批判をした。蒋琬と李邵はそれをそのまま諸葛亮に報告、諸葛亮も黙っていられず誹謗の罪なので死刑に処すよう劉禅に上奏した。
劉禅は罪一等を減じ、廖立を庶人に貶し汶山郡(今の四川省アバ・チベット族チャン族自治州)に流罪とした。
廖立は妻子と共に農業で生計を立てていたが、諸葛亮なら自分をいつか復帰させてくれると信じていた。そのため234年(建興12年)に諸葛亮の死を聞いて「わしは蛮民になってしまった」と涙を流して嘆いた(先の李厳も同様の逸話がある)。
その後、姜維が軍勢を率いて汶山郡を通りがかった時、廖立の元を訪れた。姜維は廖立の気迫が衰えずいつも通りの言動だったことに感嘆したという。結局廖立は配所で没した。
晋代の書物『抱朴子』に、臨沅県の廖氏にまつわる話が載っている。 この家の人々は代々長寿で百歳を超える者もいたが、引っ越すと皆早死にするようになり、逆にこの家に入った者は長生きするようになった。
ある時、この家の井戸水が赤いことに気づき井戸の周りを掘ってみると丹砂(硫化水銀が含まれた鉱物。古代中国では錬丹術や漢方薬として重宝された)が数十斛出てきた(一斛は約20リットル)。
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8 ななしのよっしん
2020/04/18(土) 18:23:16 ID: Eklb7Ip7Hd
知らんかった こんなのいたのか 20代で郡太守ってどんだけのスケールよ
もったいないのぅ
9 ななしのよっしん
2021/01/25(月) 00:01:15 ID: Xpqv5QwvnH
関羽のことを「猪突猛進で相手をよく見下す」と散々非難してるけどこいつも割とやべー性格してるんだよなぁ(同族嫌悪?なのか、本気で嫌ってたのかどっちかはガチだろうが)
10 ななしのよっしん
2021/10/24(日) 14:46:05 ID: Eklb7Ip7Hd
最後の告げ口をした李邵の兄・李バクは諸葛亮没後に舌禍に倒れる
ついでに思い出したが、李バク・蔣琬は馬謖処刑時に揃って罰を受けている
仲良しだな
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最終更新:2024/04/24(水) 21:00
最終更新:2024/04/24(水) 21:00
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