建国記念の日とは、日本国の国民の祝日で、毎年2月11日と規定されている。「建国記念日」と呼ぶ人もいるが、正確ではない。
1966年に制定され、翌年より適用された。
趣旨について、「建国をしのび、国を愛する心を養う。」と規定している。
もともとは紀元節といわれる日で、初代天皇である神武天皇が即位した日とされる神武天皇元年1月1日(旧暦)をグレゴリオ歴に直すと紀元前660年2月11日になるという説に拠る。(ただし、グレゴリオ歴が世界で初めて導入されたのは1582年であるため、これはグレゴリオ歴を過去に遡って適用した日付であることに注意。)
明治政府は1872年に神武天皇の即位日を祝日にすることを決めたが、当初は1873年の旧暦1月1日にあたる1月29日とされ、その後1873年に紀元節と名付けられた。
しかし、国民に旧正月を祝う祝日と勘違いされたため、1873年に2月11日に改められ、翌年から適用された。
しかし第二次世界大戦で日本が敗れたのち、新しい憲法「日本国憲法」の元で初開催された1947年の第1回国会の文化委員会において、12月2日に国会議員から「紀元節を含む祝祭日について見なおすべきではないか?」という声が挙がり始め、閣僚もそれに同調した。
第1回国会 衆議院 文化委員会 第16号 昭和22年12月2日[1]
○森山委員 この際文部大臣にぜひ御答辯を願いたいと存じますのは、この文化委員會の審議事項の第一としまして、國家行事に關する件というのがあるのでありますが、この中でわれわれが遺憾に思つておりますのは、今日に至るまで、わが日本の祝祭日というのが、實に不可解な存在であると思うのであります。大體日本の祝祭日を決定した根本は、宮中の行事が根本になつておつたのでありまして、いわゆる神ながらの行事であります。神ながらということは、御承知のごとく神ならいでありまして、上にならうということであるそうでありますが、その結果、今日の新憲法のもとにおいて、特に人間天皇の政治下におきましては、ほとんど意味をなさないものがたくさんあると思うのであります。これにつきまして、最も祝祭日の根本をなしておりますところの紀元節のごときに至りましては、紀元節が二月十一日であるということについては、初めから異論があるのでありまして、非常にあいまいなものであることは、間違いないのであります。またそのほかの祝祭日につきましても、先ほど申し上げた通りでありまして、これは根本的に審議し直して、新たなる祝祭日を決定し、そうして國民に祝日、祭日をはつきり指示すべきであると思うのであります。(後略)
○森戸國務大臣 ただいま祝祭日に關する御質問でありますが、まことに適切な御質問でありまして、在來の祝祭日は歴史的なものである。その基礎になつた歴史的の事實、あるいは意義というものも、新しい日本において變つておることも存在いたしますので、この際、祝祭日について考慮し直すべきではなかろうかという御意見は、きわめて理由のあることと存ずるのであります。ただこれは文部省の所管しておるところではありません。むしろ政府全體、内閣全體の所管しておるところで、あるいは今日の時代では、國民の總意を代表している國會が考えることであるかとも存ぜられるのであります。そういう點で、私文部大臣としてこれを所管しておるということで、お答えするわけにはいかないのでございますが、この問題は新しい憲法とともに愼重に考えられるべきであると、私も考えております。(後略)
○森山委員 ただいま文部大臣から非常に私の質問に對して適切なる御説明をいただきましたが、これはなるほど御説明のごとく、内閣もしくは國会の問題ではあるでしようが、私の文部大臣にお伺いいたしましたのは、祝祭日ということが國民の思想の根本をなしているという點であります。たとえば新嘗祭のごとき、天皇陛下がご飯を食べるのであるから、國民が皆祝祭日だ、休まなければならぬというようなことは、これは過去の天皇が神様であつた時代の遺物でありまして、これを國民がいつまでも天皇を神様としておくことは、思想的に重大な問題だと思うのであります。その點におきまして、實は文部大臣の御意見を承りたいと思つて申し上げたわけであります。
こういった意見に対して、年を改めてからの第2回国会でも審議が継続された[2][3][4][5]。ここでは同じく「廃すべきだ」という意見の他に「いいや残すべきだ」という反対の意見、「別の名称に改めては」「正確な日にちがはっきりしないのであれば日付をずらしてもよいのでは」といった存廃とはまた違った視点からの意見も出ている。また世論調査結果や学者の意見なども言及されていたようだ。
さてこういった国会議員の議論を横目にしつつ、国会における「専門調査員」に任ぜられて議論に役立てるためのさまざまな調査研究や諸連絡を行っていた「武藤智雄」という人物が居る。彼は1947年~1948年当時の顛末を振り返った「祝祭日改訂始末」という手記を1952年の『関西大学学報』に寄せている[6](当時、関西大学法学部の講師となっていた)が、
参議院は任期六年、解散もない。自然大衆への接触度が浅い。それに、より専門家より文化人を以て自認しているだけに、時として机上のインテリ論議に溺れることがある。祝祭日の改訂に際しても、これこそ参議院の独壇場だとの節を何度聞かされたことだろう。
逸早く紀元節廃止を決めて暦日が明確な聖徳太子記念日を立て、どこかからはグッドアイディアと賞められたと、お得意でもあつた。
などと、特に参議院における議論に関しては冷ややかともとれる感想を記している。
また武藤智雄は1957年にはまた別の著作(こちらは英語の文献)にて、
On December 3, 1947, the Japanese Government received a " suggestion " from the GHQ to revise the national holidays.
といった記載もしている[7]。上記の12月2日の国会議員からの提案/閣僚の同調の翌日というタイミングであるが、これは「GHQが国会における発言をモニタリングしており、良案だと思ったため推した」のか、あるいは「前もってGHQが国会議員や閣僚に働きかけていた」のだろうか。
ともあれ祝祭日の改訂を急ピッチで進めようとする参議院と比較的慎重派であった衆議院の駆け引きが行われている中の1948年5月、武藤智雄と文化委員会の長はGHQに呼ばれ、「バンス氏」と面会した(GHQの宗教文化資源課長だったWilliam Kenneth Bunceのことかと思われる)。バンス氏からは以下のような「見解」が示されたという。
ところが五月に入つてから委員長と私が司令部に呼ばれた。相手はバンス氏、穩厚な長身の紳士だった。こちらの審議狀況が聞かれた後、現行祝祭日に対する見解が示された。大体左の通りであった。
民主国家になつた以上天皇に関係あるもの、乃至国家神道的なものは取止めて欲しい(これに入るのは春季・秋季の皇靈祭・神武・大正天皇祭、それに元始祭、神嘗・新嘗祭)
明治節はボーダーラインケース、明治の時代を記念するならいゝが、明治天皇を浮出たせるならば不可。
紀元節は日本書紀の建国傳說を想起させるから、たとえ建国祭と改めても不可。神武天皇紀元は不正確であり、建国の史実は不明瞭である。
結局無難なのは一月一日だけであるが、新祝祭日の設定については、新憲法に即している限り御随意にというわけで、積極的な意見は何等示されなかつた。われわれは「さもありなん」と今更安心した。ただ衆議院一部議員が提案していた八月十五日の祖先の日又は反省の日は、こちらの意図は純眞なものだつたが、復讐に切返される虞があるとのことで、再考を要望された。
そして、翌6月の国会では新たな祝日から紀元節が除かれたことに関する発言記録が登場している[8]。「私共は、これは全く我々の自主的な判断によつて、これを除くべきものであると考えたのであります。この点は明らかにして置きたいと思います。」と言ってはいるものの、上記のバンス氏からの「見解」が後押しした可能性は大いにあるだろう。
○徳川頼貞君 私はこの際、我々委員会の中で、その外に議せられた紀元節の問題について、一言述べさして頂きたいと思うのであります。これは、この中に紀元節が入れられなかつたという点は、誠に遺憾に堪えん次第であります。我々は紀元節というものが、是非残して頂きたいということを述べたゆえんのものは、紀元節の起原が、いわゆる非科学的であるというような考え方も行われていたのでありますが、私共といたしましては、どこの國と雖も、その歴史を遡つて行くならば、必ずや神話に発生しないところはないと思うのでありまして、今日までその神話を歴史と、青史と見ていたという点に問題が存するのではないかと思います。從つて神話を神話としてこれを傳え、そうして神話として新らしい國民にこれを傳えるのには、差支えないのじやないかと考えたいのであります。又同時に、神話の中には、その國の國民感情というものが現われておる。從つてその点も考慮して、我々の祖國の始まりを考えるということは、我々國民の非常な熱望であり、又感情であると当然思つたのであります。併しながらその点は種々な事情によりまして、その方面に容れられない結果となりましたことは、誠に遺憾に堪えんのでありますが、この際我々が、如何に紀元節というものを考えていたかということを一言附け加えさして頂きたいと存じます。
○羽仁五郎君 今の問題ですが、二月十一日、紀元節が、この新らしい國民の日に入れられなかつたことについて、私共は、これは全く我々の自主的な判断によつて、これを除くべきものであると考えたのであります。この点は明らかにして置きたいと思います。今も御披瀝がありましたが、紀元節が神話であるという考え方も、学問的には成立し難いように考えます。それで神話には、御承知のように、自然に発生した民族の神話と、それから後に政治的な意図を以て製作された製作神話とが、学問上分けられなければならんわけでありますが、紀元節などを含みます日本のいわゆる神話というものは、そういう意味で自然に生れた神話でなく、後世になつて一定の政治的意図を以て製作された神話であるということは、学界において大体定説になつておるものであります。從つてこの紀元節を作ります日本の神話に、当時の日本の國民の感情が含まれていたものでないということも明らかであります。これは当時のそういう政治的な意図が含まれていたのであつて、國民の意図が含まれていないもので、紀元節が行われていたのも、明治五年に始まり、明治七年に俄かにそれが制定されて、その後暫くの間行われ、且つ強力にそれが強制されておつたために、現在國民の感情には滲込んでいるわけでありますが、併しこれは本來の感情でもなく、又非常に長い間の國民感情でない。我々が今日以後、新憲法によつて、そうして新らしい國民の日によつて、啓蒙の努力を怠らないならば、新らしい國民感情が必ず起つて來るものであることを確信しております。
その後GHQの占領が終わった1952年から紀元節または名称を変更した類似の祝日を再制定しようとする動きが幾度もあり、議員立法などで提案された。しかし当時左翼政党として力をつけていた日本社会党(現:社会民主党)の反対により、制定には至っていなかった。
また、日本歴史学協会が1952年に「紀元節復活に関する意見」を採択するなど、学術界からも紀元節の復活には反対意見が出ていた。皇族の一人だった三笠宮崇仁親王も、歴史学者であったためか「神武天皇がその日付に即位した」というのは史実ではなく神話であるという観点などから強く反対していた。三笠宮崇仁親王の言葉として割と知られる「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は経験してきた。」という一文も、この紀元節復活への反対意見を集めた書籍『日本のあけぼの 建国と紀元をめぐって』の序文内で登場したものである。
1966年、いくつかの譲歩案を入れて修正を加えることで日本社会党も承服し、ようやく法案が可決、「建国記念の日」として制定された。
「建国記念日」ではなく「建国記念の日」となっているのも、「この日に建国されたのだ」という意味ではなく「建国について思いしのぶ日である」ともとれる形にして、学術的な批判を避ける意味があったとも言われる。
掲示板
97 ななしのよっしん
2025/02/11(火) 15:15:48 ID: 5aUfmfrebV
あんなアメリカの素人弁護士と軍人どもが捏ね繰り回してでっち上げた
平和(笑)憲法なんざ建国の名に値しねえよ
98 ななしのよっしん
2025/02/11(火) 16:33:43 ID: ODDb1nD7G0
現在の祝日の名前は戦前に比しておとなしいものが多いが、「建国記念の日」に関してはむしろ「紀元節」以上に強烈な気がする
99 ななしのよっしん
2025/02/11(火) 20:17:31 ID: FML1CUuAyI
キリスト教国のクリスマスに相当するものとみていいのかな?
クリスマスもキリストの誕生を祝う日だが、キリストの誕生日自体は不明らしいし
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最終更新:2025/03/24(月) 11:00
最終更新:2025/03/24(月) 11:00
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