弥生時代とは、日本の時代区分。弥生土器の出現(紀元前10世紀~紀元前3世紀ごろ)から古墳が全国に広まる以前(紀元後3世紀ごろ)までを指す。縄文時代ともども近年の研究の進展が甚だしく、論争も絶えないため、あくまでも現在の高校教科書に乗っ取った記述にとどめる……というか邪馬台国関係でこの辺からトンデモ史家や自称歴史家の物書きたちがのさばりだすので…
おおよそ縄文土器から弥生土器に変化したあたりからを弥生時代と呼ぶ。かつては稲作の開始が強調されてきたが、縄文時代にすでに農耕の萌芽が見られたことが明らかになってきたことから、弥生早期にあたる移行期が設定された。
なお弥生土器の出現もかつては紀元前3世紀ごろとされてきたが、炭素年代による調査で北九州では紀元前10世紀ごろに弥生土器を用いていたことが明らかとなり、水稲耕作を縄文人が少しづつ選び取っていって広まっていった新たな弥生時代像が明らかになっていった。
そして、この結果弥生時代の生活はどのように特徴づけられるかをまとめよう。
弥生時代に日本ではまだ同時代文書は存在しないものの、次第に『漢書』、『後漢書』、『三国志』…つまり「魏志倭人伝」、『晋書』といった中華王朝の正史に、倭国、つまり現在の日本の様子が描かれるようになってきた。
実はこれらの正史は必ずしも時代順に作成されたわけではなく、厳密にいえば同時代史料と言えないものも混じっているものの、当時の日本の状況を知る手掛かりとして前近代から重要視されてきたのである。
それをおおよそ時系列順にまとめると以下の通りになる。
前1世紀ころ漢の楽浪郡と交渉をすでに始めていた倭国は、57年に奴国の王が後漢に朝貢し、光武帝から金印を得た。また107年には帥升が安帝に生口を献上したことが記されている。
この後倭国は大乱になったとされ、次に現れるのは239年の邪馬台国の卑弥呼からの使者である。卑弥呼は魏に使者を送り魏から倭王として認められたようだ。
そして卑弥呼の死後、壱与(台与)が即位したことも魏志倭人伝に記されており、『晋書』には266年に朝貢を行ったと記されている。
この邪馬台国はどこにあったのか、という問題は、邪馬台国がのちの天皇家と関わるものか、それとも別の王権かといった問題ともかかわり、畿内説と九州説に分かれて、いまだなお争っている。箸墓古墳の発掘による、奈良県纒向遺跡の調査も、この論争を決着させたとはいえず、というかもはや、イデオロギー的な対立にもなっているレベルのもののため、ここでは深く触れずにおきたい(出版社がキワモノ研究家の信者になってるとかいろいろあるし…)。
縄文時代まではおおよそ共通の歴史をたどってきた北海道以北と、沖縄など南西諸島では、弥生時代からはおおよそ別の文化圏となっていった。
まず北海道は寒冷な気候のため農耕社会が形成されず、鉄器を使用した狩猟・採取・漁労を中心とした続縄文文化が7世紀ごろまで継続し、以後擦文文化、オホーツク文化へと変わっていった。
また沖縄など南西諸島では弥生土器の伝播などは認められるも、漁労・貝類の採取中心の貝塚文化圏となった
掲示板
25 ななしのよっしん
2024/09/28(土) 18:31:45 ID: yIIs9nLTzO
青谷上寺地遺跡の弥生人骨のY染色体ハプログループで、CとDとOが同じくらい出てくるので、
土井ヶ浜でも混血しているだけかもしれないが。
26 ななしのよっしん
2024/10/09(水) 12:28:29 ID: 28QPOepqzm
どこの集団同士のぶつかり合いでも、なんなら現代でもそうだけど劣位におかれた集団の男って同じ集団の女からも見向きされなかったり優位な集団に殲滅されて遺伝子がだいぶ淘汰されるんだよね
27 ななしのよっしん
2025/03/21(金) 21:16:05 ID: RpG0vDPwYD
弥生時代の女性はどんな顔?出土した人骨から初復元
https://
鳥取県の遺跡から見つかった頭蓋(ずがい)骨をもとに、初めて弥生時代の女性の顔が復元されて公開されました。
骨の形状から30歳から40歳くらいとみられていて、DNAを分析したところ、二重まぶたで瞳の色や髪は黒く、肌の色はやや明るかったということです。
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最終更新:2025/04/28(月) 09:00
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