張本勲(はりもと いさお、1940年6月19日-)とは、広島県出身の元プロ野球選手(外野手)である。
NPB安打最多記録保持者。在日韓国人2世(国籍も韓国)で、本名は張勲(チャン・フン)。
OB | |
---|---|
張本勲 | |
基本情報 | |
国籍 | 韓国 |
出身地 | 日本 広島県広島市 |
生年月日 | 1940年6月19日 |
身長 体重 |
181cm 85kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 左投左打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1959年 |
引退 | 1981年 |
経歴 | |
選手歴
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プロ野球選手テンプレート |
母親は身ごもったまま海を渡り、広島県広島市で張本を産んだ。4歳の時に右手を大火傷したため左利きになったという過去がある。
中学時代に広島総合球場で試合を見て、読売ジャイアンツの宿舎での食事の様子を見たことで野球選手を志すようになり、無名の松本商業高校に入学したが、浪華商業高等学校に転校。当時は投手だったが、肩を故障し、野手に転校。3年次に甲子園出場を果たすも、張本は暴力事件の濡れ衣を着せられ出場できなかった。その後韓国に渡り、日韓親善野球に出場し注目されるようになり、1959年に東映フライヤーズと契約する。
右手の後遺症もあり外野手として育成され、1年目からレギュラーに定着し、新人王を受賞。3年目に初の首位打者を獲得すると、その後首位打者7回(日本タイ記録)をマーク。1972年(14年目)に2000本安打を達成し、安打製造器と称される。
張本自身は30本塁打を何度も記録するパワーヒッターだったが、大阪球場で野村克也のバッティング練習を見て「ホームラン狙いではこの人には敵わん」と単打狙いに徹することになったエピソードがある。
東映フライヤーズは弱いチームではなかったが、1967年のシーズンを最後に水原茂が勇退すると、荒くれ者集団が個人記録のためだけにプレーするチームに堕してしまう。1973年より日拓ホームに、1974年より日本ハムに親会社が移るが、日本ハムファイターズの球団社長に就任した三原脩はチーム改造の必要性を痛感する。
ファイターズ一年目(1974年)のシーズン終了後に大下剛史、大杉勝男、白仁天が放出され、張本が唯一チームに残ることになった。だが、二年目(1975年)のシーズン終了後に打撃陣強化を望む読売ジャイアンツと移籍を希望する張本の意向もあって、高橋一三と富田勝を交換相手としたトレードが成立する。高橋、富田の両名共ファイターズで活躍しており、両者が得をするトレードとなった。
移籍初年度の1976年は全試合に出場し、打率.355の好成績(中日ドラゴンズの谷沢健一に次ぐ二位)を残して長嶋巨人初優勝に貢献した。翌年もヤクルトスワローズの若松勉に次ぐ打率二位の成績を残して連覇に貢献するものの、「守っても安打製造機」と揶揄されるほどのお粗末な守備でファンからの評価は低かった。
成績は年々降下し、1979年のシーズンを最後に読売ジャイアンツを退団した。
1980年にロッテオリオンズへ移籍した。パ・リーグ復帰により守らずに済むようにはなったが、打撃成績が上向くことはなかった。この年に日本新記録となる3000本安打を達成。後にイチローが日米通算で張本の記録を抜くものの、日本記録とは認められず、選手の生涯戦績を見る上での参考記録となる。NPB通算で3000本安打は現在も張本ただひとりである。なお、本人はNPB最多安打記録の保持者が自分だと主張しつつ、参考記録という形でイチローが自分の記録を超えて4000本以上を打つだろうと言っていた。イチローが自身の記録を超える際にはわざわざアメリカへ渡り、イチローの歴史的瞬間を自分の目で見届けている。要はツンデレ。
1982年に韓国プロ野球界の発足に協力し、2005年までコミッショナー補佐を務める。1990年に殿堂入りを果たす。
最多安打記録ばかりが有名だが、通算500本塁打、300盗塁をマークしており、巧打、長打、俊足を併せ持った打者であった。3割300本300盗塁の通算トリプルスリーを達成しているのはNPBでは張本ただひとりである。
一方、子供の頃の火傷の結果手の指が癒着してしまった上に高校時代に肩を故障し、守備と肩は自他共に認めるお粗末さであった。失策の理由を問われて「あれは空中イレギュラーです」と答えた逸話は有名(ただ、空中イレギュラーは十分あり得る事象らしい)。
サンデーモーニングの「御意見板スポーツ」ではよく「喝!」を入れることが多く、日本人がメジャーリーグに行くのを快く思っていない節がある。大沢啓二親分が2010年に他界した後は、張本以外のご意見番スポーツの解説者は週替わりになっている。
手厳しいコメントが目立つものの、その一方でイチローや中田翔などと言った選手の素質を早くから見抜いては将来に期待を寄せている。やっぱりツンデレ。最近では川崎宗則に早く日本に帰れと厳しいことを言いつつ、打率3割超えたらあっぱれをやると言っている。しかし、その川崎を御意見番のゲスト解説者としてスタジオに招いたときは「イケメンだし実力はあるし日本なら一軍でバリバリに活躍出来るのだから早く日本に戻ってきて欲しい」と言う趣旨の発言こそあったが、手厳しいことは言わず終始ニコニコ顔でご機嫌だった。なんだかんだで愛を感じさせる。
プロ野球マスターズリーグにも出場。最近では年一回のモルツ野球でユニフォーム姿をファンに披露している。凡打の場合、観客から「喝」を入れられることもある。
通算:23年 | 試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
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NPB | 2752 | 11122 | 9666 | 1523 | 3085 | 420 | 72 | 504 | 1677 | 319 | 4 | 90 | 1274 | 78 | 815 | 145 | .319 | .399 |
タイトル | ||
---|---|---|
首位打者 | 7回 | 1961年、1967年-1970年、1972年、1974年 |
表彰 | ||
新人王 | - | 1959年 |
オールスターゲームMVP | 3回 | 1960年第3戦、1962年第2戦、1974年第3戦 |
ベストナイン | 16回 | 1960年-1970年、1972年-1974年、1967年、1977年 |
月間MVP | 1回 | 1976年6月 |
その他 | ||
オールスターゲーム出場 | 18回 | 1960年-1964年、1966年-1978年 |
サイクルヒット | 1回 | 1961年5月7日 |
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最終更新:2025/01/20(月) 11:00
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