張紘とは、三国時代に登場する人物である。
西暦153年生まれ、212年没。
字は子綱。揚州広陵郡(江蘇省揚州市)の出身。
若い頃に都で学問を学び、故郷で茂才に推されたが何進や朱儁ら中央政府の招聘に応じなかった。
戦乱を避けて江東に居たところを孫策が直々に訪ね仕官を要請した。母親の喪中だった張紘に対し、熱く口説く孫策に張紘は心を動かされ孫策に仕えることとなった。
孫策が出陣する時は張昭か張紘のどちらかを伴い、もう片方は必ず留守を預かった。丹陽征伐の時、陣頭で指揮を執る孫策に張紘は「大将たる者は最前線に立つべきではない」と言ったことが記録にある。
199年(建安4年)に許都に使いとして赴き、曹操のスカウトを受けたがこれを断った。孫策が死に孫権が継いだと聞き、江南を攻めようとする曹操に張紘は「他人の喪に付け込むべきではありません、恩義を施すべきです」と言ったため、曹操は孫権に討慮将軍と会稽太守の位を与えた。戻った張紘に孫権は会稽東部都尉の職を授けた。
孫権は他の臣下は字で呼んだが、張昭は「張公」、張紘は「東部殿」と呼びこれを敬った。張昭と並び孫呉の内政や外交や計略を担当、孫権母の呉夫人から孫権の後事を託され、孫権の行状に諫言してこれを改めさせた(孫権も兄と同じく戦いの先頭に立とうとした所を諌めた話がある)。また張紘は文章や詩賦の能力に優れ、孔融や陳琳からも評価されていた。
211年(建安16年)、孫権は本拠地を呉郡(江蘇省蘇州市)から秣陵(後の建業、江蘇省南京市)に移す。この事業は張紘の献策によるもので(劉備や孫権自身もこの地が都に相応しいと言った話が正史の注にある)、張紘は呉郡に孫権の家族を迎えに行ったがその途中で病没する。60歳だった。
死ぬ前に息子の張靖に孫権への手紙を託し、その手紙を呼んだ孫権は涙ぐんだという。
張昭と共に「江東の二張」と呼ばれる在野の賢人。張昭が孫策に仕えた後、張昭の口添えで孫策に仕える。顧雍を推挙している。遺言で秣陵(建業)への遷都を献策し孫権はこれに従った。
張昭が再建じいさんならこちらは浄化じいさん。張昭と並ぶ使い勝手の良いキャラとして人気も高い。
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4 ななしのよっしん
2013/02/24(日) 19:15:04 ID: bSZU0MXYNx
5 ななしのよっしん
2013/12/08(日) 00:39:24 ID: Ss0rSxvb09
後世では「江東の二張」と呼ばれ張昭とのコンビ扱いですが、
正史ではそれぞれ別々の巻に立伝されていますね。
孫策に仕えた時期が同じで当時は役割が似ていたものの、
孫権時代から双方の立ち位置が変わったのが理由でしょうか?
6 ななしのよっしん
2014/05/31(土) 20:22:21 ID: bSZU0MXYNx
>>5
張紘は厳畯や闞沢、程秉、薛綜と、政治家としてだけでなく学問で名声を得た人と一緒に列伝されてる
対する張昭は顧雍・諸葛瑾・歩隲という宰相や荊州・益州の軍事経営を任された大将軍クラスの重鎮と一緒に列伝されている
張昭も張紘も孫氏にとって重要なブレーンだったことは間違いないだろうけど、少なくとも陳寿(もしくは韋昭)的には、二人の立ち位置がこうやって見えていたってことじゃないかね
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最終更新:2024/03/28(木) 19:00
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