後南朝 単語

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ゴナンチョウ

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後南朝とは、南皇統、すなわち大覚寺統の後醍醐天皇系統のその後である(大覚寺統でも後二条天皇の系統は後南朝と呼ばれることはあまりない)。

概要

明徳3年(1392年)に南北朝合体が実現し、後醍醐天皇の討幕以来長年にわたって続いた南北朝時代が終結した。しかし、北を支えていた足利義満合体のために両統迭立を条件に盛り込み、その後これが履行されることはなかったため、旧南がたびたび抗議の意味を込めた行動に移る。しかし、こうした活動が実を結ぶことはなく、やがて南の皇統は歴史の闇に消えていったのであった。

南北朝合体と後南朝の誕生

南北朝時代、戦局はあっけなく北優位に傾き、観応の擾乱による北混乱はあったものの、全の南は次第に壊滅していった。そして南は、タカの長慶天皇に代わり、そのハトの後亀山天皇代替わりすることとなる。この結果北との講和が進められ、明徳3年(1392年)に後亀山天皇から北の後小松天皇三種の神器が譲渡。両合体が実現したのである。

しかしそこはやはり天皇位をめぐる争い。この合体は以下の3つの条件をもとに両者が対等な立場で行われた、という建前であった。

  1. 三種の神器は南から北儀式を経て譲渡される
  2. 今後の皇位継承は、両が交代で行う
  3. 旧南の君臣を経済的に援助するため、諸衙領を与える

しかし本音はじり貧だった南。もはや和しかはなく、条件の2である皇位継承に一の望みをかけ、にべもなく飛びついたのであった。

合体の後、後亀山院は大覚寺に入り、「南」、「大覚寺殿」と呼ばれ、幕府・朝廷の扶持に甘んじることとなった。しかし足利義満は条件1を取った以上、後亀山院に「上皇」の尊号を与える必要があることに悩む。なぜなら後亀山院に正式な在位期間のあったである尊号を与えてしまうと、今度はその間推戴した北天皇偽物となり、扱いに苦悩しなければならないからである。
そこで足利義満は「登極しなかった」、「位にあらざる人への尊号」として特別扱いにし、何とか切り抜けたのであった。

しかし、旧南の人々は、後小松天皇の次の天皇予定者が探されないことに焦りを感じてきた。足利義満が存命だったころは北からも皇位継承者を探す、という動きはなく、まだ当事者として配慮が見られた。ところが足利義持の代、ついに条件2が守られなかったことで、チャンスをとらえては皇位の回復を悲願として、旧南抗議運動、さらには反乱などの動きを見せる。これこそが、後南朝であった。

称光天皇の即位と後亀山院の出奔

足利義満の代に様々な有大名をねじせてきたため、逆にいえば各地に紛争の種がまかれていった。こうした中央政権への抵抗運動は皇位問題と直結しないわけもなく、観応の擾乱の南の時と同様、後南朝にも心性が生じたのである。

応永15年(1408年)に足利義満くなると、足利義持が南皇統の排除に蠢動し始める。彼は後小松天皇息子・躬仁(後の称光天皇)に跡を継がせる準備を始めたのだ。応永16年(1409年)には後亀山院の・護院宮惟成の息子であった成仁(つまり後亀山院の甥)が醍醐地蔵院に入室、つまり出させられた。

そして応永17年(1410年)、とうとう皇位継承問題が全く進展しないことにしびれを切らした後亀山上皇吉野に出奔する。南皇統は数あれど、一向にその中から皇太子が選ばれないことへの不満の表明であった。さらに北畠親房ひ孫北畠が応永21年(1414年)に挙兵する。伊勢の関一族をはじめ、大和賀、伊勢志摩といった南近畿の南が集結したのである。

これに対し、幕府は寺門護院に祈祷を行わせ、一方で一色畠山土岐京極といった軍勢を差し向けた。しかし応永22年(1415年)に幕府方は優勢であったにもかかわらず、和を結ぶ。これには鎌倉府をめぐる関東の不穏な情勢、足利義持足利義嗣の陰謀といった不安要素を抱えていたためであった。さらに後亀山上皇にももはや余はなく、応永23年(1416年)に京都へと帰還した。

こうして応永23年(1416年)についに称光天皇が即位。北天皇を北天皇が継ぐ、という状況が達成されたのであった。

小倉宮の苦闘

応永30年(1423年)に将軍位についた足利義量病弱であり、応永32年(1425年)に19歳で亡くなった。それから正長2年(1429年)までを足利義持が幕府を取り仕切ったが、要するに将軍ポスト位になっていたのである。
さらに言えば、足利義持必死になって即位させた称光天皇もまた病弱であった。こうして後継者問題がまた浮上したのである。

この結果旧南側からは、南皇統の即位が再度されるようになった。しかし幕府は、称光天皇小川宮が亡くなったこともあり、伏見宮貞成の「若宮」仁王(後の後花園天皇)の即位に動き出したのである。
この伏見とはかつて南に連れ去られた北の崇天皇の系統であり、その後室町幕府が推戴した後光厳天皇の系統より嫡流、といえば聞こえはいいが、要するに称光天皇から遠く離れた戚であったのだ。肝心の北内でも、称光天皇に呪詛事件が起きた際、後小松上皇称光天皇子は伏見宮をっ先に疑うほど、この縁戚にあまり良い感情は持っていなかったのである。

こうして正長元年(1428年)、旧南皇胤の中心人物であった後亀山院の孫、小倉承が出奔する。この背後にいる人物に様々なうわさが立ったが、すぐに伊勢にいることが判明した。つまりまたしても北畠が関連しており、その背後には鎌倉足利持氏がいたともいわれている。

北畠には討伐軍が向かった一方で、幕府はこれをきっかけに、仁擁立の準備を次々に進めていった。そして称光天皇が亡くなると、新将軍足利義教導で、厳重な警の中で新・後花園天皇が即位する。後小松院、伏見の貞成王どちらも安堵し、またしても後南朝の活動は実を結ばなかったのである。

そして翌正長2年(1429年)には北畠は敗死し、永享2年(1430年)には小倉承が京都に帰還する。承もついに皇位をあきらめざるを得ず、帰還後には息子・教尊を勧修寺門跡に、永享6年(1433年)には自身が得度し、室町幕府への恭順を示した。

蠢動する後南朝

小倉承の出奔は、結果として足利義教に対南政策の見直しをはからせることとなった。つまり底的な弾圧である。このころになるともはや南に関する記録がほとんどなくなってきており、詳細なことはわからなくなっているが、永享5年(1432年)から京都にいた南皇統たちは危機的な状況に陥った。護院宮(後亀山の惟成の系統)の皇籍のはく奪に端を発し、上野宮(後亀山の福御所の系統)の御子・相応院新宮の配流、翌永享6年(1433年)には、足利義教の猶子となったばかりの勧修寺門跡教尊(後亀山院の系統)の逐電が起きている。

こうして永享6年(1433年)後半には『看聞日記』に「およそ南方御一流、今においては断絶さるべし」と記されるほど、南皇統は壊滅的な打撃を受けたのだ。この反発は内心強く、永享9年(1437年)に足利義教・大覚寺義昭が出奔した際、護院宮、玉川宮(長慶天皇の系統)の臣や楠木氏らもこれに従ったほどであった。嘉吉元年(1441年)に足利義教嘉吉の乱で討たれたことによって、後南朝は生き残ることとなったのである。

嘉吉3年(1443年)には嘉吉の乱混乱する幕府の中で、小倉承がある大名と組んで反乱を起こすことまで噂になったが、彼はすでに病気であり、この噂が事実かどうかは不明である(なお嘉吉の乱の際、赤松満祐小倉宮の末子を擁立しようともしていたらしい)。

そして起きたのが嘉吉3年(1443年)の禁闕の変である。この時期かつての後南朝の中心人物であった小倉承、さらに新将軍足利義勝が相次いで亡くなり、嘉吉の乱以後立て直しを図っていた幕府に動揺が走っていた。そこを狙い、後鳥羽天皇の子孫を名乗る尊秀、護院宮の系統の、通蔵兄弟足利義教在位中に中央から排除された日野らが三種の神器強奪をし、土御門禁裏を襲撃したのである。

比叡山護院の幕府協で変はあっけなく鎮圧されたものの、三種の神器のうち、璽が後南朝に奪われたままになったのだ。この結果、小倉宮教尊が流罪に処されている。また文安元年(1444年)から文安4年(1447年)にかけて、南皇族が吉野紀伊起し畠山に討たれることとなった。このように南近畿では南皇族のテリトリーがまだ存在したのである。

璽がないことを受け、嘉吉の乱以来閉塞していた赤松氏して遺臣たちがこれを奪還しようと吉野紀伊に侵攻した長の変が、長元年(1457年)に引き起こされた。後南朝の北山宮、河野宮は殺され、翌長2年(1458年)には璽が北の元に戻ってきたのであった。

そして後南朝は応仁の乱に一の望みをかけた。小倉宮の末流が山名宗全率いる西軍の旗頭になることを申し出、「南」、「南」と称されて中にいたのである。しかしもはや彼らに歴史を動かすはなかった。

そして、文明11年(1479年)に越後から越前に移動したとされる「南方宮」について、明応8年(1499年)に伊豆三島に来て伊勢宗瑞が諫めて相模に送った宮について、の記事のどちらかが後南朝最後の記録であった。こうして後南朝は歴史の闇に消えていくのである。なお、第二次世界大戦後、熊沢天皇を筆頭とした後南朝の子孫を名乗る人物が多数現れるが、それは別の物語である。

一方…

大覚寺統においては本来嫡流にあたる後二条天皇の子孫も存在する。彼らは本来傍流であった後醍醐天皇の系統が跳梁跋扈する中、に追いやられ、同じ大覚寺統とはいえ、そもそも南北朝時代の頃から南には協していなかった。

その後遠江に土着した木寺宮、出雲に土着した土御門宮(柳原宮)などが確認されるが、後南朝とは関係に過ごしていき、彼らも歴史の闇に消えていった。

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  • 1 ななしのよっしん

    2019/09/06(金) 08:50:40 ID: UZBiBr/Bq6

    とてつもなくしぶといのに室町幕府の権威が失墜したらあっさり消えてしまったあたり、幕府に対抗するための輿としてしか見られていなかったのがちょっと可哀想

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  • 2 ななしのよっしん

    2021/01/26(火) 00:46:05 ID: Col+FB5L5a

    それは違う可性もあるのでは
    つまり室町幕府の権威→後南朝消滅、ではなく
    経済体な不安定さ→室町幕府の権威と後南朝消滅、みたいな
    実際、応仁の乱へ続いていくことを考えれば、不安定さが先に思える

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