後村上天皇 / 義良親王(1328~1368)とは、97代目(南朝としては2代目)の天皇で、後醍醐天皇の皇子のひとりである。
父は後醍醐天皇、母は阿野廉子、同母兄に恒良親王、成良親王がいる。
鎌倉幕府滅亡後の建武政権においては、北畠親房、北畠顕家に奉じられて、1333年にまだ幼いながらも陸奥将軍府に向かった。翌年、そこで親王宣下を受けることとなる。その後一度目の北畠顕家の上洛に同道して近江に入り、足利尊氏がの九州落ちが実現すると再び陸奥に戻る。さらに北畠顕家の二度目の上洛軍にも従うが、顕家の敗戦からは逃がされ、吉野の父親・後醍醐天皇に合流した。
その後再度陸奥に向かおうと海路を向かうが、途中で遭難してしまい1339年吉野に向かう。その結果吉野に生きて残っている唯一の皇子となり、後醍醐天皇の後を継ぐこととなり立太子される。そして後醍醐天皇の死とともに後村上天皇として即位することとなった。
しかしこの時点でまだ11歳という幼い天皇であり、当初は四条隆資や洞院実世らが政権を担う。1348年以降政務に関わるが、この年は四条畷の戦いで楠木正行、楠木正時兄弟を失い、高師直軍が吉野に押し寄せ、本拠地を賀名生に設け、逃げに徹した年であった。
1351年に観応の擾乱が起きると正平の一統によって北朝が降伏する。三種の神器を引き渡すという南朝有利な条件だったが、南朝軍は進軍し、北朝・幕府勢力を追放し、足利義詮を近江に追いやり、光厳院以下三人の上皇を拉致することになる。後村上天皇も賀名生から出立し、男山八幡まで進出した。しかし幕府は直ちに反撃を行い、結局賀名生に再度引き返すことになってしまった。
その後も京都の奪回を目指し、軍事的な制圧や、和睦の交渉の両方を模索するがどちらもうまくいかず、1368年に亡くなった。
掲示板
1 ななしのよっしん
2019/03/31(日) 22:46:43 ID: sC5ECSSSh6
後醍醐の影に隠れがちだが若い頃から相当に頑張ってた天皇なんだよな
足利兄弟のケンカありきとはいえ正平一統~京都奪還までの流れは当時の南朝の勢力考えると十分大戦果
2 ななしのよっしん
2019/06/09(日) 22:21:50 ID: +lumiPNmH5
3 ななしのよっしん
2020/11/14(土) 10:56:09 ID: j+TX1r3NaW
歴代天皇を闘技場で戦わせたら最強の天皇
室町幕府のバーサーカー武士たちに包囲されたけど、完全武装して囲みを破ったとか当時の日記に書かれてて強すぎる
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最終更新:2025/12/09(火) 20:00
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