後水尾天皇(1596年~1680年)とは、108代目の天皇である。
江戸時代最初の天皇として極めて有名な人物。紫衣事件への反発から明正天皇への譲位を行ったとされてきたが、ちゃんと見てみると同時多発的にいろいろと起こっていた模様。
「禁中並公家諸法度」に規定された最初の天皇として新たな天皇の在り方を模索し、85年という長寿の人物でもあった。
文禄5年(1596年)6月4日に後陽成天皇と近衛前子(後の中和門院)の間に生まれる。後陽成天皇には中山親子との間に一宮と二宮がおり、豊臣秀吉によってほぼこの一宮・良仁親王が後継者と位置付けられていたのである。
ところが、豊臣秀吉の死後、慶長3年(1598年)に病気になった後陽成天皇が突如としてかつて豊臣秀吉の養子となっていた八条宮智仁親王に譲位をすると言い出す。これには摂家やいわゆる五大老らも、おおよそ賛同できない、という方向でまとまった。八条宮の正室が娘だった九条兼孝ですらである。そして後陽成天皇に対抗馬として持ち出されたのが三宮、つまり後の後水尾天皇であった。
豊臣秀吉死後の政権への不安もあったかどうかはさておき、この騒動でふんわりと三宮の政仁親王が一宮として扱われだし、王家に久しぶりに嫡庶の意識が芽生えだしていた。ついに関ヶ原の戦いで徳川家康の権勢が固まったのを見ると、慶長6年(1601年)に良仁親王は仁和寺に入れられる。受戒も滞りまくったような、本人の望まぬことであった。
父親の後陽成天皇は極めて厳格な人物であり、後陽成天皇の母親の勧修寺晴子(当時は新上東門院)、後陽成天皇の女御の近衛前子もそれぞれで比較的連携した勢力として政治的事件に当たる状況で、女院・女御・摂家衆から孤立した存在となっていった。それを象徴するのが猪熊事件であり、天皇が求めた厳刑からだいぶ減じる形で徳川家康に采配されたのである。
そんななか、後陽成天皇はかねてよりの政仁親王への譲位を目論む。しかし、徳川家康は元服と譲位を同日にしようとするなどの天皇の意向を突っぱね、七か条の条書を突き付けたのである。後陽成天皇は弟達や幕府から政治力を見込まれていた勧修寺晴子、板倉勝重らの説得を受け、近衛信尹の言葉に「たゝなきになき候、なにとなりともにて候」とのみ応え、ついに折れた。
かくして、天正15年(1610年)に元服のみ行われ、天正16年(1611年)に後水尾天皇が即位した。しかし、こうした経緯から後陽成は後水尾天皇に怒りを向け、即位直後に相伝の宝物が後水尾天皇にわたられなかったとして徳川家康が解決を命じている。南光坊天海が間に入りいったんは和解したようだが、元和2年(1616年)に再度対立していたようだ。
この間、豊臣秀頼が滅び、天皇の在り方などを定めた「禁中並公家諸法度」などが制定された。『禁秘抄』からの引用で、学問にはげむ天皇の姿などが理想とされ、武家官位なども別の秩序となっていった。これを見届けたころに、後陽成は再び病気になる。危篤状態になった後陽成のもとに向かった後水尾天皇は枕元に立ち「憂き秋の虫の鳴音のあはれをも、今身の上に限りとぞ思ふ 月を老となるまでめでし浮き世かな」の辞世の句を唱えて、上皇は亡くなった。和解できたのかどうかは微妙なところだったが、ともかく父親が亡くなったのであった。
慶長19年(1614年)頃から天皇に徳川秀忠の娘・徳川和子(後の東福門院)を入内させる話が持ち上がっていた。しかし正式決定がされないまま、徳川家康が死ぬ。さらに、後水尾天皇とおよつとの間に一宮が誕生したことが災いしてか、度重なる延期が行われたのである。
さらに、徳川秀忠が元和5年(1619年)に上洛して福島正則らの問題にあたっている中、およつとの間にさらに皇女・梅宮が生まれた。こうしたことで延期が重なっていき、幕府から信頼された割に暇していたため当時天皇の近くに送られていた藤堂高虎が天皇との折衝にあたっている。後水尾天皇が譲位すらちらつかせた中、ついには禁中並公家諸法度に反したとしておよつの縁者達が罰せられた。
このことのショックで後水尾天皇が譲位をさらに進めようとする中、勧修寺晴子が亡くなる。藤堂高虎はこれを機に、板倉父子らと近衛信尋、九条忠栄らに直談判し、ようやく徳川和子の入内と、おそらくそれが理由による先の罰せられた人物の赦免が行われたのであった。
こうして元和6年(1620年)6月に徳川和子の入内が行われる(近衛前子が中和門院になるのもこのタイミング)。衣服に狂ったような派手好きな人物であったが、天皇とのウマはあったようで、以後の政治史の重要人物の一人となる女性が登場したのであった。
そしてここで徳川家光の征夷大将軍就任が進む。元和9年(1623年)に徳川秀忠・徳川家光の上洛が行われ、徳川家光の征夷大将軍への移行がスムーズに終えられた。徳川秀忠によって初めて正式な禁裏御料が決められた中、徳川和子との間に女一宮(後の明正天皇)を授かった。
ここで八条宮智仁親王から世襲親王家設立のための若宮養子入りの申し出があり、徳川和子が念のために父に確認した後、智忠親王として伏見宮家以来の二番目の親王家(後の桂宮家)が誕生した。
徳川秀忠の動きによって徳川和子が寛永元年(1624年)に中宮となり、また後水尾天皇の弟・済祐親王が高松宮家(後の有栖川宮家)という第三の世襲親王家を誕生させた寛永2年(1625年)もつつがなく進んでいく。そして、寛永3年(1626年)に最初で最後の大事業となった徳川秀忠・徳川家光の二条行幸も終わり、すべてが順調に進んでいるかのようであった。
二条行幸の時に徳川和子が妊娠していた子は男子であり、高仁と名付けられて完全な後継者候補として育てられた。そして寛永4年(1627年)に後水尾天皇は譲位を考えていることを申し出、幕府も自身の縁者だったことからこれを承諾する。後深草天皇以来の幼帝誕生、のはずであった。
しかし、寛永5年(1628年)に高仁親王は死去。さらに、このタイミングで僧侶の出世問題を暴発させた紫衣事件が勃発する。史料が少なく、当事者たちの真意が良くわからなくなってしまうが、様々な問題が折り重なって朝幕関係がまたもこじれだしたのである。ついには後水尾天皇はこの年に徳川和子との間に生まれた皇子を八条宮智仁親王の養子に早々と入れてしまったのであった(10日で亡くなったので問題はこじれなかったが)。
八条宮智仁親王が亡くなった寛永6年(1629年)になると、後水尾天皇も病に苦しみ、譲位を進めたがった。さらに徳川和子との間に生まれたのは女三宮、つまり皇女であったのだ。くわえて、徳川家光の乳母・ふくを春日局に仕立て上げて無理くり対面にまでこぎつけさせられた不快すら味わった。
ついに10月頃より一部の側近に譲位を打ち明けだす。11月8日に意を決して誰にも知らせず明正天皇への譲位を慣行した。京都所司代・板倉重宗は当然蚊帳の外であった。
後水尾院、徳川和子らにとって心配だったのは幕府がどのような手で出てくるかであった。すでに林羅山の女帝擁立への反対発言すら耳に届いていたのである。しかし、徳川秀忠・徳川家光らは事を穏便に済ませ、明正天皇が即位した。中院通村の懲罰人事はあったものの、上洛した土井利勝、酒井忠世、金地院崇伝らはあくまでも摂家中心の禁中並公家諸法度の再確認のみを述べて戻っていった。
ただし、最大の問題は、この諸法度には院政の規定がなく、後水尾院の立場をどうするかが問題になったのである。新造御所や亀姫の高松宮好仁親王への婚姻で表面上は穏やかな関係となったが、問題は山ずみのままだった。ところが、寛永9年(1632年)に徳川秀忠が亡くなると、事態は急変する。寛永11年(1634年)に上洛した徳川家光は新体制を築く一環として院政を承認したのである。
かくして、後水尾院によるもはやいつ以来かの本格的な院政が始まったのであった。
明正天皇は全く帝王学も叩き込まれず、政治の表舞台に出ない存在であった。徳川家の血に連なっているため幕府から強く規制された存在であり、本人がどう思っていたかは別として、明正天皇はこの役割をつつがなくこなしていったようだ。
寛永17年(1640年)頃から明正天皇の譲位を意識した内裏造営が行われる。次の天皇は後水尾と京極局・園光子との間に生まれた素鵞宮(後の後光明天皇)である。徳川和子との間には男子は生まれず、庶子であったものの最年長の彼が次第に後継者とされていたのである。
幕府は徳川和子との子でなくても認める方針となり、寛永19年(1642年)に後継者・紹仁親王となり、元服と譲位もすぐに行われて後光明天皇が即位した。父親らしく何かと心配をし、訓戒書なども残した後水尾院であったが、後光明天皇は改元に積極的に関与するなど、割合健やかに育った。
一方この間後水尾院は慶安4年(1651年)に突然落飾して法皇になっている。幕府も驚かせ、林羅山もいくつか理由を考えているが、一糸文守らとの交流で禅宗を身近に感じていたことが背景であったようだ。とにかく、このことは何ら政治的影響はなかった。
ところが、承応3年(1653年)に後光明天皇が体調を崩し、急死してしまう。後光明天皇は生前に後水尾院と新中納言局・園国子との息子・高貴宮(後の霊元天皇)を養子にしたいと言っていたが、彼はまだこの年に生まれたばかりだった。そこで御匣局・櫛笥隆子との子でまだ俗界にいた花町宮良仁親王(後の後西天皇)を中継ぎにしようとし、徳川和子らもこれに賛成した。幕府は徳川家綱の表向きの建前を伝えつつも、もし良仁親王に器量がなければいつでも譲位を突き付けるよう武命をくだした。
度重なる火災にもめげず、積極的に書物のアーカイブ化を進めた後西天皇であったが、寛文2年(1662年)に幕府は譲位を求める。予定よりも早く10歳で霊元天皇が即位した。後水尾院は霊元天皇に葉室頼業、園基福、正親町実豊、東園基賢を選抜してつける。ところがさっそく葉室頼業、園基福、東園基賢、千種有能、柳原資行ら五人衆を身近に置きたい霊元天皇が禁裏小番の再編成を申し出、これに後水尾院が対応させられてしまった。ここで誕生したのが議奏である。
延宝期になると、霊元天皇の采配にたびたび問題が生じたうえ、霊元天皇の一宮の生母で性格に難があったとされる中納言典侍が遠ざけられ、松木宗子との間の五宮(後の東山天皇)との間で後継者争いが徐々に生じていたようだ。後水尾院と徳川家綱は当然一宮を据え続けたが、彼らの死後反故にされる。
80代になり、取り残された二条冬基のための醍醐家創設など、徐々に身辺の整理を始めた後水尾院。ついには延宝8年(1680年)に天皇への暇乞いを込めた行幸を行い、そのまま85歳で亡くなった。なお、ここで追号として初めて後水尾の名前が与えられたが(この記事での今までの記述は全部便宜的である)、水尾院とは清和天皇のことである。辞世の句は「ゆきゆきて思へばかなし末とほく、みえしたか根も花のしら雲」。
後陽成天皇に引き続き、学問にはげんだ天皇である。とりわけ舟橋秀賢、近衛信尹といった師匠を失った後は、公家たちとともに学問を行う環境を作り、時に師となって彼らに古今伝授させていった。
加えて立花に凝り、また別邸や山荘で茶会にも興じていった。その一つが修学院離宮である。
一方で仏道への傾倒は、彼の子供たちにも仏道修行に励む人物を多く誕生させた。円照寺の大通文智(上述した梅宮)、林丘寺の緋宮といった人物が知られる。
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