後陽成天皇(1571~1617)とは、107代目の天皇である。
豊臣秀吉や徳川家康の同時代人であるため、室町時代以降の天皇の中では高い知名度のある人物の一人。
朝議の復権に励む真面目な人物であり、常に規範的にある努力を続けていった。このような人物のため、武家に対しても肝の座った態度で接し、風紀を乱す公家には厳格な態度を貫いた。
正親町天皇の孫で、誠仁親王と勧修寺晴子の間に生まれた第一皇子。弟に大覚寺門跡空性法親王、曼殊院門跡良恕法親王、聖護院門跡興意法親王、豊臣秀吉に養子入りし、後の四親王家の一流・桂宮家の祖となった八条宮智仁親王らがいる。本名は和仁、後に周仁に改めた。
すべては天正14年(1586年)に皇太子だった父・誠仁親王が亡くなったことから始まる。すでに何度も彼への譲位を試みていた正親町天皇はさらにその子である和仁に譲位し、ここに後陽成天皇が誕生したのである。譲位の儀も即位礼もこれまで苦労してきたのが嘘のように、豊臣秀吉によってつつがなく執り行われたのである。
かくして、近衛前久の娘・近衛前子が入内し女御となった(すでに南北朝時代以来皇后が設置されなくなっていた)。さらに、近衛前子は豊臣秀吉の養女であったため、彼もまた外戚となる。
豊臣秀吉によって天下統一がなされ、すでに三国国割構想実現に向けた大陸侵攻が始まっていた天正20年(1592年)。これに対して後陽成天皇は手紙で待ったをかけた。このように、後陽成天皇は豊臣秀吉の大陸進出には全く消極的なスタンスだったのだ。
さらに、自身の譲位の試みもうまくいかないままだった。豊臣秀吉が亡くなった慶長3年(1598年)に自身も体調を崩し、回復がうまくいかないままだったので譲位を試みる。ところが、後陽成天皇は豊臣秀吉に皇太子にされていた自身の息子・良仁親王ではなく弟の八条宮智仁親王に皇位を継がせようとしたのである。これには公家・武家が驚き、猛反対すると、後陽成天皇は自身の第3皇子・政仁親王を皇太子にすることに成功してしまうのである。徳川家康の判断で譲位は取りやめになったものの、結局皇太子は変更されたままであった。
関ヶ原の戦いも終わり徳川家康が徳川秀忠に征夷大将軍を移してからもしばらくした慶長12年(1607年)にようやく譲位の話が動き出す。しかし、院御所の造営も終わると、徳川家康の娘・市姫の死のため延期させられてしまう。これに対し後陽成天皇が催促すると、徳川家康からの七ヵ条の申し入れ等が届き、機嫌を損ねてしまう。この状況に板倉勝重が動き、後陽成天皇の弟たちも説得に入り、近衛信尹の言葉でようやく後陽成天皇が折れることとなった。
かくして慶長15年(1610年)に政仁親王が後水尾天皇として即位する。ところが、この間公家の密通事件である猪熊事件が勃発する。後陽成天皇は徳川家康にこの解決を申し出、後陽成天皇の求めた刑罰よりはかなり軽くなった猪熊教利、兼保頼継の処刑と大炊御門頼国、花山院忠長、飛鳥井雅賢、難波宗勝、松木宗信の遠流、烏丸光広、徳大寺実久の無罪放免で決着した。なお、この事態の打開に豊臣家が動いた形跡はなく、すでに公武間のやり取りは徳川家康と行われていた。
そして豊臣秀頼らが滅亡すると、徳川家康との交渉の末に元和元年(1615年)に禁中並公家諸法度が制定。かくして新たなる時代の幕開けを見て、元和3年(1617年)に亡くなった。
父親の誠仁親王が正親町天皇に比べて文化活動に熱心だったこともあってか、後陽成天皇の即位以来文化活動が盛んにおこなわれた。なお、細川幽斎とのエピソードが極めて有名であるが、後陽成天皇自身は三条西家のものとと細川幽斎の注釈書を見比べて、三条西家の説で古今伝授させることにしている。
他にも『方與勝覧集』という名所歌集を編んでいる。さらに上皇になってからは、鷹の絵である『鷹攫雉図』を自ら描いた。
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