御一家とは、従来室町幕府において足利氏に次いで将軍就任の可能性が高い家格とされた有力一門の総称である(ぶっちゃけほぼ名ばかりとか言ってはいけない)。
近年では史料の整理によって、こうした狭義の御一家とは別に新田系氏族を含めた足利一門に義朝流源氏を加えた広義の用法があることが明らかにされてきたため、便宜上そちらについても記す。
御一家として名が挙がるのは吉良氏、渋川氏、石橋氏の三家である。彼らは庶家ではあったものの全て嫡流より兄の家系であり、室町幕府の中では管領と同等かそれ以上の待遇であった(なお石橋氏の嫡流にあたる斯波氏も条件は満たしているが、後述する経緯で準ずる扱いとなっている)。
ただし条件的には足利義兼の兄の家系である仁木氏、細川氏、さらには足利義康の兄の家系である新田一門も該当するのだが、鎌倉時代に苗字を足利と呼ばれていたままかそうじゃないかというのが両者の差となっている。
建長3年(1251年)の足利泰氏の突然の出家、建長6年(1254年)の泰氏の父親足利義氏の死去、弘長2年(1262年)の泰氏の嫡子足利頼氏の死去、という相次ぐ惣領家の空洞化に代わって彼らの存在が大きくなったというのがその要因である。
これらの一門はやがて南北朝期に苗字を変化させ足利氏に従属する扱いへと変化させられていった。しかし他の庶家と違いなおも苗字が足利のままで有力であった斯波氏に対し、やがて段階を経て吉良氏が地位上で上位の待遇を与えられるようになり、永享ごろに御一家が成立したとされる。
これは将軍をくじ引きで決めるに至ったという経験から、仮にこのような状況が再び訪れ、しかも今度は直系に候補がいない場合に備えてあらかじめ候補の家を用意し、鎌倉公方家と斯波氏の介入を防ごうとしたためではないかと考えられている(しかし、あまり研究されていないので実際のところはまだよくわかっていない)。
筆頭とされる吉良氏はややこしいことに二つの家があり、足利義氏の庶子であった義継流吉良氏(鎌倉時代までは東条吉良氏と呼ばれていたが、室町時代に西条吉良氏が新しく東条吉良氏を分立したためにもっとややこしいことに)、同じく庶子である長氏流吉良氏(西条吉良氏)のどちらもそこに含まれたらしい。
なお尊卑分脈によると義継の方が兄で長氏の方が弟らしいが、義継は具体的な事績が不明でいまいちよく分かっていない。
東条吉良氏は奥州管領として奥州に派遣された後追い出され、そのまま武蔵で鎌倉公方のもとにいた。西条吉良氏は観応の擾乱で足利直義に組したものの幕閣として高い地位にあったが、三河の小領主程度の基盤しか持っていなかった。なお今川氏は西条吉良氏のさらに庶家である。
東条吉良氏(蒔田氏)、西条吉良氏(吉良氏)、そして今川氏はそろって江戸幕府のもとで高家になっていたりする(吉良氏は赤穂浪士のあれそれで断絶したけど)。
渋川氏は足利泰氏の息子義顕の系統で、正室の変更で嫡子となった足利頼氏よりも年長であったが庶子となったので別に家を建てた御家人という扱いになった。
当主が若くして死ぬことが続いたが、渋川幸子が二代将軍足利義詮の正室であったことから重用され九州探題とされるも、奥州探題の大崎氏や羽州探題の最上氏同様現地では振るわないままであった。なお御一家の中では唯一肥前守護という地位についている。少なくとも大内義隆が存命のころまでは名前だけは見かけたがその後は行方不明に…
石橋氏は、同じ経緯で足利泰氏の庶長子となり独立した御家人となった家氏の、そのまたさらに庶長子である義利の系統である(嫡子宗家の系統が斯波氏となった)。
石橋和義やその息子石橋棟義は南北朝時代に斯波氏と対立しながらも重用されるがやがて史料上から消え、その後も御一家という高い家格にあったもののあまり表舞台に出てくることはなかった。その結果系図関係もほとんど不明であり、応仁の乱で尾張に下向したっきり、最後の石橋忠義が斯波義銀や吉良義昭とまとめて織田信長に追放されたのがその最期らしい。
奥州に行った家系はその後も塩松石橋氏として存続しているが、最終的に執事の大内氏に下剋上されて行方不明になってしまった。
しかし江戸幕府における御三家や御三卿といった他の連枝に準ずる存在と違い実際に将軍の跡を継ぐということはなく、将軍近習にはならない程度の高い家格であったものの、実際のところあくまでもパフォーマンス以上の存在にはなれなかった。
近年史料上の御一家という言葉の用法が前述の三家以外を指している場合があり提唱されたもの。
ぶっちゃけて言ってしまうと足利一門全員のことである。ただしその足利一門というのは新田一門に加えて源義朝流の源氏(とはいえ、もはや頼朝の鎌倉将軍家も全成の阿野氏も義円の愛智氏もおらず、実質源範頼の吉見氏くらいであるが)も含まれている。
後者はともかく前者は、近年では鎌倉時代の新田氏は新田義重や新田政義のあれこれで没落して足利一門に包摂されており、実質新田一門として独立した動きを見せていたのは南北朝以降という見方が有力になっているので、ある意味本来の姿に戻ったともいえる。
その構成メンバーであるが
この御一家であったか否かで与えられる権限が異なるということは観応の擾乱などを経てなくなったものの、儀礼上など幕府内において待遇に差は依然残っていった。
ただし室町幕府に比べると鎌倉府の方は譜代では上杉氏、外様では佐竹氏、千葉氏、小山氏、結城氏、小田氏、宇都宮氏、那須氏など(いわゆる関東八屋形)の力が強く、御一家だからと言って高い地位で活用されたわけではなかった。
またここには名前があがらないが奥羽でも大崎氏、最上氏、天童氏、高水寺斯波氏、塩松石橋氏、二本松畠山氏といった足利一門の氏族が同様の状況にあった。
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最終更新:2025/04/16(水) 20:00
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