「徳川信康」(とくがわ のぶやす 永禄2年(1559年)3月6日~天正7年(1579年)9月15日)とは日本の戦国武将である。「松平信康」とも。
江戸幕府初代将軍・徳川家康の元嫡男。通称は次郎三郎、岡崎三郎。
三河武士らしい勇猛果敢な人物であり、若年ながら数々の武功を挙げた。が、天正7年(1579年)、突如として自害を命じられ21歳の若さで切腹し、この世を去った。
その最期については様々な説・見解があり、戦国の大きな謎の一つである。
「徳川」の名字は父・家康個人が永禄9年(1566年)以降名乗ったもので、他の一族は松平氏のままであった。これは、多数の分家が存在する松平一族の中における別格、トップとしての一種の記号として機能させる為と解釈されている。その為、江戸時代を通して徳川姓が許されたのは将軍家と御三家・御三卿のみと厳しく制限されていた。
信康に関しては、家康の嫡男・後継者という立場であるので(後年の弟・徳川秀忠と同様に)徳川を名乗っていても特に不思議はない。しかし、天正三年の佐久間信盛宛織田信長黒印状では「松平三郎」と信長に呼ばれており、この時点では松平姓を名乗っていたことが判明した。このように当主と嫡男で名字が異なるのは後北条氏でも例があり(北条氏綱と伊勢伊豆千代丸(後の北条氏康))、戦国期のみに見られる特異な現象と言われる。江戸時代の文書では岡崎三郎信康あるいは徳川次郎三郎信康と記述されている。
永禄2年(1559年)、当時は今川義元の配下であった松平元康(徳川家康)の子として駿河で生まれ、竹千代と名づけられた。生母は正室の駿河御前(築山殿)。
しかし、翌年に桶狭間の戦いが起こり今川義元が戦死すると、元康は三河・岡崎城に入り自立。信康は母や妹と共に人質として駿府にあったため、命の危機にさらされた。しかし義元の跡を継いだ今川氏真は、信康たち以外の松平家からの人質を処刑したのみで、信康たちが殺されることはなかった。
永禄5年(1562年)、元康が三河西郡城を攻め、城主・鵜殿長照の子供二人を生け捕りにすると、氏真と交渉して信康たちと交換した。これにより信康は駿府から岡崎に移った。
永禄6年(1563年)、数え5歳で織田信長の娘・五徳(徳姫)と婚約。その後、永禄10年(1567年)5月に結婚する。
元亀元年(1570年)、父家康が浜松城に移るのに伴い岡崎城主となる。8月28日には元服も行い、義父信長と父家康から名前をとって次郎三郎信康と名乗った。数え12歳での元服は当時でも異例だが、これは城主が未成年ではいけないという配慮によるものだと考えられている。
天正元年(1573年)3月に初陣したと言われ、まず武節城を攻め落とし、そのまま足助城を攻め陥落させたと伝わる。ただし、この時期は未だ武節城と足助城の間は武田家の勢力下であったため、初陣でこのような進軍を行うのは困難ではないかとの指摘がある。そのため、実際に信康がこのような初陣をしたならば、それはこのルートを確保した9月以降ではないかとされる。
この後も長篠の戦いなど対武田の戦いに従軍した。
が、天正7年(1579年)8月、信康は父・家康によって岡崎城を追い出され、大浜に移る。その後堀江城、二俣城と移送され、9月15日に二俣城で切腹。享年21歳であった。亡骸は二俣城外に葬られ、後に清瀧寺が建てられた。
徳川家後継者の突然の自刃については謎が多く、今なお議論を呼んでいる。江戸時代以降の通説とされてきたのは、主に大久保彦左衛門の記した「三河物語」に拠るものである。以下あらすじ。
「信長公記」では、7月16日に酒井忠次と奥平信昌が家康の使者として遣わされ、信長に馬を献上した事が伝えられるのみだが、時期的にこの時に書状のやり取りがあったと見るのが自然だろう。
とりあえず、夫婦関係があまり良くなかった事に関しては事実といわれている(当時の徳川家臣の日記にも残っている)。ただ、そこから即切腹というのは流石にあの信長とはいえ少々飛躍している感が否めない。また、徳川家の筆頭家臣である酒井忠次が信康について全く弁解しなかったのも不可解な部分である。
築山殿に関しては、今川一族の出身であり今川義元の養女であったから、その義元を討った信長の娘・徳姫との関係については様々な憶測が成されている。また、かつて家康が独立した事で、今川家では関口氏広(築山殿の実父)が切腹させられており、徳姫はこれを武田と内通した理由に挙げている(とされる)。そもそも信長が要求したのは「信康の切腹」であるのに、築山殿まで殺害された理由もこれまた不明である(本当に内通していたのかも謎)。
唱えられている仮説の一部は以下のようなもの。
最後に、事件後の出来事をいくつか挙げておく。
「信長の野望」(PC)シリーズにおける徳川信康(松平信康)の能力一覧。
武勇に優れたという伝承から戦闘系の能力が高めに設定されている。名前は覇王伝までは「徳川信康」で、天翔記以降は「松平信康」名義。信康事件イベントは将星録以降登場、イベント内の選択肢で自刃を回避する事もできる。
| 軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
| 戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 73 | 政治 | 60 | 魅力 | 90 | 野望 | 70 | ||||||||
| 武将風雲録(S1) | 戦闘 | 78 | 政治 | 63 | 魅力 | 79 | 野望 | 64 | 教養 | 65 | ||||||
| 覇王伝 | 采配 | 81 | 戦闘 | 81 | 智謀 | 45 | 政治 | 60 | 野望 | 64 | ||||||
| 天翔記 | 戦才 | 166(A) | 智才 | 112(B) | 政才 | 144(B) | 魅力 | 87 | 野望 | 83 | ||||||
| 将星録 | 戦闘 | 86 | 智謀 | 74 | 政治 | 69 | ||||||||||
| 烈風伝 | 采配 | 81 | 戦闘 | 78 | 智謀 | 66 | 政治 | 59 | ||||||||
| 嵐世記 | 采配 | 75 | 智謀 | 56 | 政治 | 50 | 野望 | 62 | ||||||||
| 蒼天録 | 統率 | 77 | 知略 | 53 | 政治 | 46 | ||||||||||
| 天下創世 | 統率 | 75 | 知略 | 53 | 政治 | 45 | 教養 | 60 | ||||||||
| 革新 | 統率 | 83 | 武勇 | 85 | 知略 | 59 | 政治 | 51 | ||||||||
| 天道 | 統率 | 83 | 武勇 | 85 | 知略 | 59 | 政治 | 51 | ||||||||
| 創造 | 統率 | 76 | 武勇 | 84 | 知略 | 55 | 政治 | 52 | ||||||||
| 大志 | 統率 | 74 | 武勇 | 85 | 知略 | 65 | 内政 | 52 | 外政 | 53 | ||||||
掲示板
53 ななしのよっしん
2025/03/20(木) 12:56:59 ID: qvpS4MoqNr
まだ木曾義昌が調略されて地獄のフタが開く前の武田家が「ガタガタだった」っつったって、それは後世視点から武田側の内部情報ベースでそう言ってるだけ
情報が出揃った後世視点なだけの単なる後知恵
54 ななしのよっしん
2025/08/03(日) 10:04:35 ID: iDlxMvpw2i
御館~甲相同盟破棄後の時期は信玄でもできなかった信濃の完全支配&越後の一部割譲や上野まで足を踏み入れて最大版図形成したからな勝頼(滅びる前の最期の輝きともいえるかもだが)
自身が直接率いた軍勢は「強すぎる」から家康も氏政も勝頼相手には決戦は避けてた
遠江方面はやったやられたで家康単体に後手後手ながらも、高天神陥落まで致命傷にならないしぶとさ発揮してるし、徳川と武田間では1度たりとも和睦や停戦が無いまま5年以上戦い続けてるから厭戦感情が湧いてもおかしくない
55 ななしのよっしん
2025/08/26(火) 20:30:57 ID: BBrnqkTnmV
御館以前と以降で結構な外交の変化あるからな
甲佐同盟とか甲房同盟とか
そういう意味で信康にも武田から声がかかっててもおかしくはない気がする
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最終更新:2025/12/09(火) 23:00
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