徳川家慶単語

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徳川家慶(1793~1853)とは、江戸幕府第12代征夷大将軍である。

概要

一般的には徳川家斉大御所時代と彼の後の幕末の動乱に挟まれ、あまり知名度の高くない征夷大将軍徳川家斉後の幕政の混乱を立て直し、水野忠邦と共に内憂外患に対する積極的な対策を取るも、ペリー来航直後の嘉永6年(1853年)に亡くなることとなった。

父・徳川家斉の大御所時代

徳川家斉の次男で、は側室の楽(香院)。江戸城本丸にて生まれた後、徳川家斉正室の広大院が養育を行った。幼名は次郎

寛政8年(1796年)に諱を慶とし、寛政9年(1797年)に従二位大納言に叙せられ、江戸城西丸に移る。文化6年(1809年)には有栖川宮織仁王の王女・楽宮喬子と婚姻文化13年(1816年)には右近衛大将を兼任し、文政5年(1822年)には正二位内大臣、文政10年(1827年)には徳川家斉の太政大臣叙任に併せ、従一位となる。
このような将軍就任前の異例の出世は、徳川家斉将軍や直系族が高位高官を取ることによる将軍権威の強化への志向によるものだそうだ。

保8年(1837年)に本丸へ移り、上様と称され、左大臣に叙せられたうえ、征夷大将軍に就任する。もっともこのころはまだ徳川家斉大御所として君臨し、斉とその側近が実権を握る大御所時代であった。『続徳実記』では「温良謹慎」と評されつつも、積極的な導性を見せず「そうせい様」と陰口されたとも。

徳川家慶の時代

保12年(1841年)に徳川家斉が亡くなると、徳川家慶と老中・水野忠邦により直ちに斉側近が処罰され、保の革が実行された。しかし大御所政治を一掃し、享保・寛政の時代の復古をした性急な革は効果を上げられず、幕府の弱体化と幕国家としての危機を進行させてしまった。

徳川家斉の生前は幕府は内憂外患への対処が見られず、賄賂政治による腐敗や子女を通じた縁戚大名の優遇が行われるなど、幕体制は悪化をたどっていた。その中で、徳川家慶は18世紀末から黌らに進められていた『徳実記』の完成とその献上や、保14年(1843年)には67年ぶりの日光社参、嘉永2年(1849年)には小原牧にて軍事調練を兼ねた鹿狩を実施して、武威を示そうとした。

また天皇朝廷を中心として将軍の権威付けも積極的に行い、武融和の状況を生み出した。この結果、多くの朝廷儀礼の復古・再がなされ、また保11年(1840年)の天皇の死去の際、「諡号+天皇号」という称号が約960年ぶりに再される、といった具合に天皇朝廷権威の再が見られるのもこの時代であった。

さらに防問題では保8年(1837年)の徳川家慶の将軍就任時に発生したモリソン号事件、実権を握った後の保13年(1842年)にもたらされたアヘン戦争情報を契機として、大きく政策が転換された。この結果イギリスとの紛争を避けるために、文政の異打払を撤回し、給与を発した。
同時に、鎖国体制維持のため防体制が強化され、諸大名に防の強化を命じた一方、下田奉行の復活羽田奉行・新潟奉行の新設、海岸防備掛(防掛)の設置などが実施。西洋流の軍備導入による軍事増強を図ったことに加え、非常時の物資供給を全規模で行えるよう、印旛沼から江戸湾までの路造成工事が行われた。
また、江戸城大坂城の周辺約十里を幕府領とする上知もこの一環とも。

水野忠邦の失脚後は阿部正弘によって専制的な政策決定方法が見直され、雄大名らへの情報開や詰問などの協調体制へと転換していった。しかし還暦の祝いとして高田馬場で流鏑を行った直後、病することとなる。

彼の亡くなった後、息子徳川家定は心身に問題があったとされる病弱な人物でほとんど務を行えず、将軍継嗣問題を引き起こすこととなった。

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