徳川綱吉(1646~1709)とは、江戸幕府の第5代征夷大将軍である。
生類憐みの令を取り仕切った犬公方、の一言ですべてが語られてしまっている感のある人。
その実態は父・徳川家光、兄・徳川家綱のような生まれながらの将軍からは程遠い庶子であり、自身の権威付けと穢れの忌避を基軸にした、小心者の専制君主と言われていたり言われていなかったり。生類憐みの令は死後すぐに取りやめられたものの、彼の治世によって江戸時代は大きな転換期を迎えたとされるが…。
とりあえず、何分本人の治世時からあることないこと書かれ、様々な情報媒体で拡散・増幅されたイメージは暴走し、持ち上げるせよ叩くにせよ、印象論だけが独り歩きしてしまっている感がある人物である(忠臣蔵や水戸黄門などでの悪役イメージが強い人も多いだろう)。江戸幕府の歴代征夷大将軍の中でも最も評しにくい人物ともいえる。
正保3年(1646年)1月8日、徳川家光と側室お玉の方(桂昌院)の間に徳松として生まれた。お玉の方の出自は諸説あるが京都の出身であり、同じく家光の側室だった六条有純の娘・万の縁で江戸にやってきて春日局の命で大奥入りしたという。
徳川家光には正室・鷹司孝子との間に子がなかったが、綱吉から5歳年長の徳川家綱が後継者として扱われ、綱吉誕生時には世継として祝儀に臨んでいる。次兄・松平綱重は「四十二ノ御二ツ子」として忌まれたものの、慶安4年(1651年)に綱吉ともども徳川家光の死の直前に賄料を与えられ、以後この二人の兄弟はしばらく、兄・徳川家綱を支える一門として歩みを同じくする。
ただしこのころ綱吉はまだ松平綱吉であり、兄・徳川家綱を支える庶子として明確に区別された存在であった。
寛文元年(1661年)に綱吉は25万石の上野国館林藩主となり、同じく25万石甲府藩主となった兄・松平綱重とともに参議に任じられる。彼ら二人は館林宰相、甲府宰相と称され、また綱重が左馬頭、綱吉が右馬頭であったことから「両典厩」とも呼ばれた。ただし、綱吉が館林に行ったことはただ一度のみであり、もっぱら江戸で勉学と武芸に励む日々を送っていった。
延宝5年(1677年)には側室・お伝の方が鶴姫を、延宝7年(1679年)には同じく、お伝の方が徳松を出産する。ただ、寛文4年(1664年)に婚礼した正室の鷹司信子との仲も良好で、容姿端麗で利発だった彼女は後にケンペルらからも称賛されている。
しかしこの間綱吉を取り巻く情勢は変化した。延宝6年(1678年)に「両典厩」の片割れだった兄・松平綱重が死没。延宝8年(1680年)5月8日には第4代征夷大将軍の兄・徳川家綱も死没。この直前である5月6日、長男・徳松の誕生日の傍ら、すでに病床の家綱への養子入りが決定しており、綱吉の将軍就任は急いで行われたのであった。
徳川家綱からの近さでいえば、松平綱重の息子・松平綱豊(後の将軍徳川家宣)、綱吉、綱吉の息子・徳松という順番になり、徳松は将軍世継ではなくすぐに館林藩主を継ぐことが発表されたことからも、綱吉は中継ぎにすぎなかったとみなされている。この際、大老・酒井忠清が有栖川宮幸仁親王を迎えて、中継ぎの宮将軍をたてようとした、という噂まで後に伝わっており、江戸幕府はこの急遽35歳で迎えられた中継ぎ将軍に冷ややかな目を注いでいた。
徳川綱吉が将軍就任後の一連の儀式を終えた後、まず取り組んだのは酒井忠清の大老からの免職であった。徳川家譜代の中では大身であり、徳川家綱に重んじられた酒井雅楽頭家の儀礼と政治の役務と格式は、堀田正俊へと引き継がれた。酒井忠清のこの免職は、「失脚」や「罷免」からは程遠いものだったようだが、酒井忠清は翌年の天和元年(1681年)に死亡。自殺とも噂された。
こうして延宝8年(1680年)から貞享元年(1684年)まで、堀田正俊主導による、いわゆる「天和の治」が行われる。とはいえこのような評価が当時からあったわけではなく、あくまでも三上参次による享保・寛政・天保の改革と並び立つという歴史的評価にすぎず、注意が必要である。
徳川綱吉が次に取り組んだのは越後騒動の終結であった。越後では、延宝2年(1674年)に越後高田藩主・松平光長の嫡子である松平綱賢が亡くなったことをきっかけに家督争いが勃発。延宝7年(1679年)にはついに家老・小栗美作の襲撃事件にまで発展し、一度は松平直矩、松平近栄、酒井忠清、久世広之、渡辺綱貞らが調停し、荻田主馬らが罰を受けて手落ちとなったはずであった。
ところが騒動は沈静化せず、延宝8年(1680年)に審議は再開。稲葉正則や牧野成貞らが主導して取り調べが進む。結果天和元年(1681年)に徳川綱吉の上意が申し渡され、松平光長の改易、関係者の処罰といった喧嘩両成敗に近い判定が下された。
綱吉は内心かなり迷っていたようだが、越後騒動を収めて以後も厳罰処分を進め、40以上の藩が改易・減転封されていった。
しかし、天和3年(1683年)に徳松が亡くなる。さらに貞享元年(1684年)に堀田正俊が稲葉正休によって江戸城で暗殺される。稲葉正休もすぐに殺され、浅野長矩と吉良義央のそれに先立つ殿中刃傷事件でありながら、どちらも死んで喧嘩両成敗の形となり、深く追求されることはなかった。
しかしこの結果江戸城に二つの変化がもたらされた。将軍と老中の距離が物理的に引き離されたこと、そしてその間を埋める側用人が登場したこと、である。
堀田正俊の死後、月番老中とは別に、側用人の権勢が増し始める。その一人が牧野成貞であり、その後柳沢吉保に引き継がれる。しかし側用人として重用されたのは彼ら二人が例外であり、喜多見重政を除けば、太田資直、牧野忠貴、南部直政、金森頼峕、相馬昌胤、畠山基玄といった人々は1年足らずで免じられていった。
とはいえ柳沢吉保の権勢はすさまじいものであり、吉保の息子・柳沢吉里を綱吉の御落胤とみなす説まであるほどである。
一方で息子・徳松の死で服忌令を制定するなど、徳川綱吉の死や穢れの忌避はこのころから顕在化していく。貞享年間に入ると質素倹約・質実剛健を推し進める一方で、貞享2年(1685年)頃からついに生類憐みの令がスタートしていった。
犬の保護で有名なこの法令であるが、全国に適用されたのは捨子・捨牛馬と鉄砲政策であり、犬に関する法令も、実は放鷹制度の廃止によって犬が増えてしまったため、対抗措置として多発されたともいわれている。かつては犬の保護は綱吉に重用された僧・隆光の進言であるとされてきたが、出典がゴシップ記事を載せた『三王外記』であり、『隆光僧正日記』などには全く記載されていないことから、今では否定的な見解が主流となっている。
しかし徳川綱吉がこの法令に並々ならぬ情熱を注いだのも事実であり、残された肖像画からたんぱく質や脂質を十分にとっていなかったのではとも言われている。さらに儒学の傾倒、仏教の外護にも力を入れ、湯島聖堂や知足院が建立されている。とはいえ自分の庇護を受けようとしない日蓮宗不授不施派の弾圧など、あくまでも現実的な統制策の一環だったともいえる。
しかしこのような106例にものぼる寺社造営は、幕府財政の立て直しを必要とし、勘定奉行の荻原重秀の重用、および貨幣改鋳による経済混乱を招くこととなった。
さらに、この一方で、元禄14年(1701年)の浅野長矩による吉良義央切り付け(いわゆる松之廊下刃傷事件)、翌年である元禄15年(1702年)の赤穂浪士の吉良義央邸討ち入り、といった忠臣蔵でおなじみの赤穂事件が勃発する。また元禄16年(1703年)には大地震、宝永4年(1707年)には富士山噴火といった天変地異が勃発した。
こうした中、徳川綱吉の一人娘で紀伊藩主・徳川綱教と結ばれていた鶴が宝永元年(1704年)に亡くなる。二人の間に子供はなく、綱吉の後継者はこれでいなくなってしまった。そこで同年、ついに甥の松平忠豊が養子に迎えられる。忠豊は徳川家宣と名を改め、世継として扱われていく。
宝永2年(1705年)には綱吉は右大臣に昇進する一方、母親である桂昌院が亡くなった。
そして宝永8年(1709年)1月10日に、徳川綱吉は麻疹であっけなく死んでしまう。この頃徳川家宣をはじめ将軍家や諸大名で麻疹が流行していたが、綱吉は特に重傷だったと思われる。
さらに翌月、御台所・鷹司信子が麻疹、もしくは天然痘で死亡。この二人の急死は、柳沢吉保の息子・柳沢吉里を将軍家の養子に迎え入れようとした綱吉を信子が暗殺し、陰謀から将軍家を守った後自害したのだ、という「柳沢騒動」の筋書きを用意し、庶民にまで語り継がれた。
かくして徳川綱吉が死ぬと、その政治はすぐ終焉を迎えた。2月1日の葬儀までに生類憐みの令の多くが撤廃されている。綱吉は死に際に、もし政策を改めるなら代替わり前に修正するよう伝えていたものの、柳沢吉保には生類憐みの令を撤廃しないよう言い含めており、完全に「死人に口なし」という有様であった。
こうして徳川綱吉の死が諸大名に伝えられると、小笠原長重を筆頭にした老中は、松平輝貞、松平忠周には弔問に訪れたが、柳沢吉保に対しては何もしなかった。このように柳沢吉保の凋落は明らかであり、彼の手で生類憐みの令の撤廃を止めることは到底不可能であったのだった。「思無邪」と書き残した徳川綱吉であったが、孤独な専制君主はかくして亡くなり、江戸時代は新たなる段階へと移っていく。
掲示板
21 ななしのよっしん
2023/12/07(木) 13:18:26 ID: rWqmO3m01X
22 ななしのよっしん
2024/03/30(土) 12:54:06 ID: ufcZy2M14N
イーロンマスクのTwitter私物化を見ると、生類憐みの令が脳裏に浮かぶ
23 ななしのよっしん
2024/05/04(土) 03:27:46 ID: KpdRe0huVZ
生類憐れみの令は処罰の重さや対象の広さが極端すぎるので、あの時代目線で見ると名君とは言い難い。
ただ、生類憐れみの令きっかけに日本の倫理観が大きく変わったのも事実で、日本史全体での功績で見ると稀に見る名君。
本当に評価が難しい。少なくとも国民の価値観を変えるためにはある程度極端になるし、失敗することも数多くある。
名君かはともかく倫理観変容へのチャレンジそのものは高く評価していいと思う。
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最終更新:2024/09/18(水) 09:00
最終更新:2024/09/18(水) 09:00
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