徳川頼房(1603年~1661年)とは、江戸時代前期に活躍した大名である。
徳川家康と側室のお万の方の間に生まれた11男。御三家の一つ水戸徳川家の初代。幼名は鶴千代。なお慶長15年(1610年)に徳川家康の命で家康の側室のお八の方(お勝、お梶の方とも、英勝院)の養子となっている。かの有名な水戸黄門こと徳川光圀の父親。
慶長8年(1603年)に伏見城で生まれる。慶長11年(1606年)に常陸国下妻10万石を賜る。しかし幼少のため駿府城で育てられ、下妻は城代の朝比奈泰雄らによって守られた。慶長12年(1607年)には中山信吉が付家老となる。慶長14年(1609年)に同母兄徳川頼宣(当時はまだ徳川頼将)が駿河に転封したことで水戸城主となり、25万石を領した。ただし、この時点でもまだ幼少のため、水戸は徳川頼宣時代と同じく武田信吉時代からの家臣・芦沢重信が財務を、幕府の代官頭・伊奈忠次が民政を司った。
そして慶長16年(1611年)にようやく元服して従四位下少将に任じられ、徳川頼房となった。元和2年(1616年)の徳川家康の死去後に江戸に移り、元和5年(1619年)に初めて水戸に入る。元和6年(1620年)に正四位下中将と参議に任じられる。元和8年(1622年)には3万石を加増されて、28万石となる。
寛永3年(1626年)の後水尾天皇の二条城行幸に際して、従三位権中納言に叙任され、これが水戸徳川家の極位極官となった。しかし、徳川頼房自身は寛永4年(1627年)にさらに正三位に任じられる。
徳川頼房は寛永6年(1629年)に拝領した江戸小石川の屋敷を中心にほとんどは江戸にいて、そこから国元の城代・家老・奉行らに指示して藩政を執り行った。しかし、徳川頼房によって水戸藩はありとあらゆる基礎固めが行われていき、体制が確立していった。そんな徳川頼房は、剛毅勇武で古き良き武将の風格があったとされる。一方で学問を好み、学者を招聘することも多かった。
寛文元年(1661年)に江戸に死去。常陸国久慈郡太田郷瑞龍山に葬られた。長男の松平頼重は讃岐国高松城主となり、次男の徳川光圀が水戸徳川家を継いだ。
徳川家康の息子のため稀に出る存在だったのだが、戦国立志伝への登場をきっかけにようやく定着した。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | 154 | 智才 | 152 | 政才 | 150 | 魅力 | 73 | 野望 | 72 | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | 65 | 智謀 | 58 | 政治 | 60 | 野望 | 72 | ||||||
蒼天録 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
創造 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
戦国立志伝 | 統率 | 72 | 武勇 | 60 | 知略 | 77 | 政治 | 80 |
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最終更新:2024/04/20(土) 01:00
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