恒良親王(1324~1337)とは、後醍醐天皇の皇子である。
1331年以降の元弘の乱で後醍醐天皇が捕らえられると、いったん中御門宣明のもとに預けられるが、翌年異母兄の静尊法親王とともに但馬に流され、但馬守護太田守延の庇護を受けた。
やがて後醍醐天皇が伯耆に脱出すると、太田守延も宮方につき親王を奉じて千種忠顕と合流。足利尊氏とともに六波羅探題を攻め落とすこととなる。そして建武政権が誕生すると彼が皇太子に建てられた。
しかし足利尊氏の離反によって、1336年に一度和睦することとなる。それに異を唱えた新田義貞に対し後醍醐天皇は恒良親王を天皇位につけ、新田義貞、尊良親王とともに北陸に送り出したのである。金ヶ崎城にこもった彼らであったが斯波高経率いる幕府軍に包囲され、新田義貞、脇屋義助兄弟が援軍を求めて離脱したすきをついて落城。尊良親王、新田義顕が自刃する中恒良親王は脱出するが、すぐに幕府軍に捕らえられる。彼は新田義貞兄弟の行方について尋問を受けるが、ウソがばれ、そのまま足利直義に命じられた粟飯原氏光に毒殺されたという。
彼が天皇としてしばらくふるまったのは一次史料からも確認されることで、後醍醐天皇の吉野への脱出を機にこれを改めたとする。そのためもし仮に新田義貞と恒良親王が勝利していたら、第三王朝である北陸王朝が誕生していたのでは、という仮説も立てられている。
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最終更新:2024/04/24(水) 08:00
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