恵帝単語

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恵帝とは中国皇帝である。

  • 前漢の恵帝(孝恵帝、劉盈、在位紀元前195年 - 紀元前188年) ←ここで解説する。
  • 西の恵帝(司馬衷、在位290年 - 307年)
  • の恵帝 - 拓跋賀傉への追諡。武帝(拓跋)による。
  • 明の恭恵帝- 明の建文(朱允炆)への追諡。清のによる。

概要

恵帝とは、前漢の二代皇帝である。恵帝は諡名(おくりな、死んだ後につけられた名称)で、本名は劉盈(りゅうえい)という。前漢を建したである劉邦の後を継いで皇帝に即位した。

後、反乱が相次いでいたため不安定であった前漢皇帝として、である呂雉(りょち)を補佐として政治にとりくんだが、呂雉が劉邦の側室であった戚夫人に残虐な私刑を行ったことから政務に意欲をなくし、食にふけり若死にした。

しかし、その政治は、名宰相である蕭何曹参に支えられ、の時よりも安定した治世を保った。

司馬遷が書いた『史記』では皇帝としての伝記である本紀はつくられなかったが、班固の『書』では本紀がつくられている。

この項では、恵帝を補佐した四人の老人である四晧(しこう)、后にあたる皇后氏)、兄弟にあたる肥(りゅうひ)、如意、恢(りゅうかい)、友(りゅうゆう)、長(りゅうちょう)、建(りゅうけん)をあわせて紹介する。

幼少時代

沛県の豊の出身。の初代皇帝となる劉邦に、初代皇后となる呂雉をにした、一の男子という正に皇帝となるために生まれた中国史上最高のサラブレッドであった(劉邦から見ると二番男子)。

というのは、後世の理解であり、実際の劉盈(本文では、生前では一度も呼ばれたことがない「恵帝」ではなくこう記す)は生まれた時はただの富農の子に過ぎなかった。

劉盈は、始皇帝の統治時代では最後の年となる始皇帝37年(紀元前210年)に生まれている。この頃の劉邦は人夫を咸陽に送ることに失敗して逃亡していたため、劉盈はこの時、いまだ呂雉のにあったか、誕生間もなく、劉邦は逃亡したものと思われる。つまりは、劉盈はとは、ほとんど顔をあわせてはいなかった。

なお、『史記』には、劉盈が(後の「魯元」。この項では、元と記述する)とともに呂雉の田んぼ取りを手伝っていたところ、通りがかった人相を見る老人が劉盈を見て、呂雉に話してかけて、「あなた(呂雉)が人の人相をしているのはこの息子さんのおかげです」とった話や、たまたま、亭長の仕事休暇で帰っていた劉邦がその老人に人相を見てもらう話しが残っている。

だが、この話の信憑性は薄い上に、劉盈の年齢からみて、どれだけ劉邦が逃亡する時期をずらしてもつじつまがあわない。人相はともかく、取りを行っていたのは腹違い肥との混同であるとも考えられる。

とにかく、劉盈はである呂雉によって育てられた。

やがて、劉邦は沛にもどってきて、沛名乗りへの反乱を起こす。この時、劉邦は劉盈と顔を合わせたとみられるが、特にそれに関連した記述は見られない。

劉邦家族を沛に残し楚のの武将として、活躍する。ついに、劉邦の都である咸陽に攻め込み、を滅ぼした。

その後、劉邦が、軍を討伐して諸侯の軍の代表となった項羽と対立したことによって、中・の地に左遷させられ、王に封じられる。中・はへき地であるため、劉邦家族を呼ぶことはなかった(劉邦の部下となった王陵劉邦家族を助け出して関中に送ったという話はあくまで創作である)。

やがて、劉邦は決起して、関中を制圧し、続いて義を名として項羽討伐の兵を挙げて、楚に攻め込んでいく。

数えで6歳になった劉盈は、劉邦や呂雉、元、肥たちと沛か豊に住んでいたようであるが、なぜ、彼らが項羽に捕らえられ人質にされなかったかは分からない。

とにかく、劉邦項羽が斉討伐に赴き、不在にしていた時に、項羽の本拠地である彭を落とし、家族を呼び寄せる(劉邦家族はそのまま沛か豊に帰っていたとする見方もある)。

しかし、斉から少数の軍でもどった項羽によって、劉邦の率いる56万の大軍は大敗する。劉邦は敗走し、劉邦である、妻の呂雉、肥が人質として捕らえられた。(「(劉邦の)妻子」が捕らえられたと『史記』に記載されている。の妻(劉邦ではない)と肥もや呂雉とともに捕らえられたとする説があり、ここではその説を採用する)

劉盈は混乱の中で元とともに、劉邦の部下であった王陵に救われる。

(不明確な部分も多いがどうやら)王陵に連れられた劉盈は元とともに、敗走中に家族を探していた劉邦に会い、王陵から劉邦に引き渡され、そのに乗せられる。

しかし、楚の騎兵が劉邦を追撃してきた。劉盈と元は、の重量を軽くして速度をあげたい劉邦によって、三度に落とされる。そのたびに劉邦の御者となっていた夏侯嬰が彼らを助け出した。夏侯嬰はそのまま劉盈と元を抱きかかえてを疾駆させる。

劉邦は怒って十数回も夏侯嬰ろうとしたが、結局、脱出することができた。

乱世の非常時とはいえ、である劉邦の態度と行動は肯定されるようなことではなかった(もっとも結局は夏侯嬰の意見を聞いて二人を助けていることは間違いない。戦乱においては、劉邦の子孫の劉秀光武帝)もを助けられず逃亡しており、同じ子孫にあたる劉備家族を捨てているため、必ずしも劉邦が特別に非情というわけではない)。

恐ろしいべて、劉盈の心には王陵夏侯嬰に対する感謝の気持ちが多大であったことは容易に推測できる。

劉盈たちを連れた劉邦は下(かゆう)という土地で兵をまとめていた呂雉のの呂沢(りょたく)を頼った。

漢の太子

劉盈は、兵をまとめはじめた劉邦に連れられて、の防衛拠点となった滎陽(けいよう)という土地まで行く。

劉盈はさらに、劉邦に引き連れられ、西の関中に入り、の都となっていた櫟陽(れきよう)に入った。

そこで、劉盈はの太子(王である劉邦の正統な後継者)となる。

突然運命の転移を劉盈は全く理解できなかっただろう。情はどう見ても劉盈に対して薄いものであった。

この相は、劉邦が、劉盈にとって伯父にあたり、将軍となっていた呂沢の支援を得るために、劉邦と呂雉との子である劉盈をの太子にすることを呂沢に約束していたことがその理由であるようである。

劉盈のにあたる肥も後継者となりえる資格があったことも考えられ、この時期には、劉盈の3歳年下のであり、劉邦の寵する戚夫人の子である如意もすでに生まれていた。

劉邦にとってみれば、劉盈を太子にすることは必ずしも、気が進んで行った行為ではなく、これが後の太子問題に発展する。

劉盈の太子は、肥と如意によっていつでも脅かされかねない不安定な地位であった。

天下平定

とにかく、劉盈は項羽下の覇権を二分して争う劉邦の正統な後継者である太子となり、櫟陽を守ることになった。劉盈の周囲には、諸侯と呼ばれる地位の高い武将たちの子が護衛としてついた。また、政務については、丞相である蕭何っていたため、自然と劉盈と蕭何しくなったものと考えられる。

その後も楚戦争は続いたが、劉邦大将軍となった韓信劉邦の師(軍事参謀)となった張良らの活躍により、戦いは、第に劉邦側の優位に傾く。項羽は講和に応じ、人質となっていた劉盈の祖にあたるの呂雉、肥は返された。数えで8歳となった劉盈は櫟陽において祖と再会したと考えられる。

劉邦は、年が明けて、項羽に対する攻撃を継続し、ついに項羽を滅ぼす。下を定した。劉盈はまだ数えで9歳であった。

太子争い

しかし、劉盈に穏な日々は訪れなかった。

劉邦の部下にあった諸侯王たちは相次いで反乱を起こし、劉邦は反乱定に明け暮れる。

劉邦も反乱討伐を行うか、陽において側室である戚夫人との日々を送ることが多く、劉盈と呂雉がいる長安に余りもどってはこず、の呂雉も皇后であるにも関わらず劉邦とほとんど会うことはなかった。

劉盈は性格が優しいが、身体が弱かった。劉邦は、自分に似ていない劉盈に代わって、戚夫人との子である如意を自分に似ているとみなし、太子にしようと考えるようになり、劉盈を太子からそうとした。

元々は富農の子に過ぎない劉盈は、太子としての地位の正統性が低い。また、劉邦は後の皇帝と違い、儒教的な長幼や嫡子・庶子にこだわる思想は薄く、先祖から下を統治する命を引き継いだ天子でないため、厳しい礼法を守る必要はなかった。

漢王朝としての基盤そのものは弱いという面はあれども、劉邦命を引き継ぐ相手を自由に選べる裁量の余地は多かった。

そういった意味で劉盈は弱い立場であった。

九年(紀元前198年)に、太子の補佐にあたる太傅(たいふ)に儒者の叔孫通(しゅくそんつう)がついた。

劉邦が群臣に劉盈(数えで13歳)の太子をして、如意に代えようと図ると、群臣は固く諫め、周しゅうしょう)は特にしく反対した。劉邦は、笑ってその場は終わらせた。しかし、それを聞いていた呂雉が周にひざまずい感謝するほどに、劉邦の太子交代の意思は固く、継続していた。

そのため、呂雉は次の呂釈之(りょたくし、前年に呂沢は死去)を使わして、太子問題のことを劉邦の参謀であった張良に相談させる。張良は強いられて仕方なく、「上(劉邦)が士を侮るため、山に隠れてしまい招けないでいる四晧(しこう)と呼ばれる老人が四人います。太子(劉盈)にへりくだった内容の手紙を書いてもらい、を用意して弁舌の士に説得にいかせれば招きに応じるでしょう。彼らを賓客(ひんきゃく、高い身分の客)として従えて朝廷に行けば、上を説得できる助けとなります」と答える。

呂雉と呂釈之、劉盈はそのように実行して、その四晧(東園(とうえんこう)、綺里季(きりき)、(かこうこう)、先生(かくりせんせい)の四人)を招いた。四晧は呂釈之の賓客となった。

結局、劉盈は太子からされることはなく、同年、如意は王に封じられる。だが、劉邦如意をに行かせず、戚夫人と如意を近くにらせた。また、「不肖の子(劉盈)を児(如意)の上に置いてはいけない(自分の死後、如意を皇帝となった劉盈の臣下とするわけにいかない、という意味)」ともっていた。

劉邦の劉盈に対する情は相変わらず薄かった。

漢の二代皇帝

十一年(紀元前196年)、南王に封じられていた黥布が反乱を起こした。病気にかかっていた劉邦は、劉盈(数えで15歳)に軍を率いらせて、黥布を討伐しようとした。

四晧は呂釈之に説いた。

「太子(劉盈)は軍功をあげても、何の足しにもならず、軍功がなければ罰せられます。ましてや、太子に従う諸将は陛下劉邦)と下をともに定した勇猛な将軍ばかりです。も太子のために尽くそうとはしないでしょう。太子は功績を立てられず、王(如意)が太子と代わるのは間違いありません。皇后(呂雉)にお願いして、陛下に泣いて、『討伐する黥布下の猛将です。また、太子が率いても諸将はも従わないでしょう。これでは負けてしまいます。陛下は苦しいでしょうが、ご病気をおして、軍を率いて、自ら討伐されてください』と進言させてください」

呂釈之と呂雉はそのように実行すると、結局、劉邦自ら、黥布を討伐することになった。

劉盈は長安に残ることになり、太傅(たいふ)の叔孫通とは別に、太子の補佐にあたる少傅(しょうふ)の任を張良が行うことになった(張良が少傅になったわけではないことに注意)。

十二年(紀元前195年)、劉邦黥布を討伐して長安へと帰還する。病気をおして出撃したうえに、矢まで受けた劉邦は病がさらに重くなっていた。

劉邦はまた、太子を如意に代えたいという希望を持っていた。劉邦張良に相談したが、太子は代えてはいけないと、諫められる。しかし、断念してはいなかった。

そこで、太傅の叔孫通が、「太子(劉盈)の仁と孝は下が知るところです、また、皇后(呂雉)は陛下と苦難をともにし、粗食を食べあった仲ではないですか。どうしても太子を代えるというのなら、まず、私を誅してください」と諫める。

劉邦は口では叔孫通に従い、太子を変えないと言ったが、それでも、あきらめきれずにきた。

ある時、劉邦は劉盈に従う四人の老人を見て、不思議に思って、彼らに何者かを問うた。老人たちは姓名を答えた。この四人はあの四晧であった。

劉邦は驚いて、「わしがめても、逃げていたのに、どうして太子に従っているのか」とたずねる。

四晧は、「陛下劉邦)は士を軽く見て、よくののしられますが、私たちはその侮辱に耐えられません。だから、恐れてかくれていたのです。しかし、太子は仁にして孝、また、よくへりくだり、士を愛しています。下に太子のために死ぬことを願っていないものはありません。そえゆえに出てきて、ここに来ているのです」と答える。

劉邦は、ついに太子を取り換えることを断念した。

同年、劉邦は死去する。

劉盈はの二代皇帝に即位した。まだ数えで16歳であった。

政務にいそしむ

劉盈は皇太后となったの呂雉、相蕭何の補佐を受け、政務にとりかかる。劉邦が諸侯王を討伐したとはいえ、漢王朝の基盤はまだ定まっていなかった。

劉盈は、全民の男子全員爵位を与えた。これは漢王朝後、初めて実施された民爵授与であった。劉邦の時代は異姓の諸侯王(韓信彭越黥布盧綰ら)がいたため実現できなかったことであるが、これにより、中国全土の民衆を漢王朝の統治下に置くことができるようになった。

さらに、爵位の授与では、劉邦とともに楚戦争やその後の諸侯王の反乱討伐において従軍した人物を優遇、あるいは銭を授与し、その上で、劉盈に仕えた人物たちにも高い爵位を与えた。蕭何や呂雉の意図はあくまでも、功臣への配慮よりも、劉盈の皇帝としての漢王朝統治に重きを置かれていた。

さらに、田祖(税として納める穀物)を軽減して、恩赦をくだした。また、地方を統治すると諸侯のいるに、高劉邦を祭った)を置いた。下を統治する命を受けたと下の人が認めた劉邦祭り宗教的な意味でも、漢王朝の基盤を強くするための処置である。

また、民が銭を出して、罪を贖い死罪を免れるようにした。さらに、完成していない長安の建設にも着手した。

先代(劉邦)の墓やに対するりに詳しい人物が群臣にいなかったので、儒学に習熟した叔孫通を太傅から異動させて、太常(たいじょう、宗(先祖を祭る)の儀礼をる)の官とする。叔孫通はの宗の儀礼に定めた。

劉盈が、呂雉のいる長楽宮(ちょうらくきゅう)におしのびで行く時に、民に負担をかけないように、高い場所に歩をつくった。しかし、そのは、高祖(劉邦)をの上を通っていたことから、叔孫通に、儀礼に反すると諫められる。劉盈は取り壊そうとしたが、叔孫通から、人の上に立つものは過ちがあってはならない、高祖のを移せばいい、と再度、諫められる。劉盈はその通りに実行し、高祖のは新たに建てられることになった。

また、あの夏も太(たいぼく)として、劉盈に仕えていた。呂雉は夏侯嬰感謝しており、第一の土地にある邸宅を与えていた。

このように、劉盈は新たな漢王朝造りの政務に励んでいた。

残酷な母の処置

しかし、事件が起きる。

呂雉が積年の恨みをらそうと、戚夫人を女官のにいれ、さらに、王となって、赴任していた如意を呼び出す。断ることは許されず、如意はのいる長安へと向かった。呂雉は戚夫人・如意もろとも殺しようと考えていた。

仁慈の人であった(『通俗楚軍談』では、劉盈は、生前の劉邦から戚夫人と如意の保全を託されている)劉盈は、呂雉から如意を守ろうとして、自ら彼を迎えた。劉盈は、如意とともに宮廷に入り、彼と一緒に生活をして、如意を護した。

孝恵元年(紀元前194年)、劉盈が狩りに行き、早起きができない如意を残して、出て行った。呂雉はそれを知り、人をやって、如意に鴆(ちんどく、のある羽を持つからつくった)を飲ませる。明けに劉盈が帰還した時には、如意はすでに死んでいた。

さらに、呂雉は戚夫人に残な方法で私刑をくだし(内容については閲覧注意であるため、知りたい人は検索)、便所の中にいれて、「人」と称した(当時は便所の下にを住ませていた)。

数日して、劉盈は呂雉によって戚夫人の変わり果てた姿を見せられる。劉盈が便所の下のいる奇妙な生物をよく見ると、戚夫人であった。劉盈は大で泣き、病気となり、それから一年以上も立つことができなくなった。

劉盈は人を派遣して、呂雉に伝えた。

「これは人間のすることではありません。私は皇太后(呂雉)の子として、下を治めることはできません」

劉盈は毎日飲み、淫乱にふけり、政治を行おうとしなくなり、やがて病気となった。

次第に、劉盈は、閎孺(こうじゅ、閎が名、孺は少年の意味)という見がよく、へつらいがうまい佞臣を近づけるようになる。劉盈は、閎孺とともに寝起きして、群臣たちの提案は閎孺を通さねば、劉盈に伝わらなくなった。そのため、劉盈の若い側近たちは、閎孺を見習って、帽子や衣を飾り、やおしろいをするようになった。

ただし、後述の通り、劉盈は全に政務から遠ざかったわけではない。この時ですら、叔孫通の諫めによって、に先祖の霊に対して、桜桃(ゆすめゆら)などの果実を献上するようにしている。

年が明けて、孝恵二年(紀元前193年)、楚王・交(りゅうこう、劉邦)とにあたる斉王・肥が来した。劉盈は交・肥とともに宴を開いた。劉盈は肥をだと敬い、彼を上座において家族のような礼で接した。しかし、呂雉は肥に対して怒りをおぼえ、二つの盃に鴆をいれて、肥の前に置き、立ち上がって長寿を祝ってからを飲むように命じた。劉盈も肥と同時に立ち、一緒に長寿を祝って盃のを飲もうとした。呂雉は驚いて、劉盈の盃をひっくり返す。肥は、怪しいと感じ、に酔ったふりをして、飲まずに立ち去った。劉盈は機転により、を救うことができた。だが、との関係は悪化するだけであった。

二人の相国

同年、劉盈は、病床にあった蕭何に対し、次の相は斉の相となっていた曹参はどうかとたずねる。曹参はかつては蕭何しかったものの、楚戦争中からずっと蕭何と不仲な関係であったのだが、蕭何は同意した。蕭何が死去すると、曹参の相となった。

曹参の統治に老思想を用い、法に厳しい役人をやめさせ、温厚な人物を役人として用い、民の負担を減らすことで、統治を行った。劉盈も曹参毎日を飲んで政務に励んでいないのを見て、自分が若いがゆえに侮られているのではないかと考え、問い詰めることがあった。しかし、曹参から「私は蕭何に、陛下は高祖(劉邦)に及ばないのだから、何も理して変える必要などないでしょう」と諭されて同意する。

もとより、劉盈も色におぼれており、それほど政務に熱心ではなかったことも背景にあると思われる。

孝恵三年(紀元前192年)には、南越王の佗(ちょうた)が臣と称して貢物を贈ってきた。

孝恵四年(紀元前191年)、氏を皇后として立てる。氏は敖(ちょうごう、張耳の子)と魯元(劉盈の)の間に生まれたであり、劉盈からすれば姪にあたった。これも、呂雉の意向であった。結局、劉盈はから逃れることはできなかった。

民の中で耕作に励み、に孝行・従順な人物の税を免除した。

劉盈はついに20歳となり、元した。下に大赦をくだす。民や官吏の福をさまたげる法律止した(民や官吏が、民衆を手なずけて反乱を起こさないために、福を行ってはいけないという法律が存在した)。また、挟書の始皇帝に行われた民間で蔵書はしてはいけないという法律焚書の理由ともなった)も止する。次第に、平和な世が訪れていた。

孝恵五年(紀元前190年)、相曹参が死去する。劉邦の遺言通り、(かつて劉盈を救った)王陵が右丞相、陳が左丞相となった。長安の完成した。

固まっていく漢王朝の基盤

孝恵六年(紀元前189年)、民に爵位を売ることができるようにする。また、女性は30歳までに結婚しない場合は罰をくだすことにした。人口増加も急務である。

また、長安に西(西の場所に市場)を設置し、食糧をたくわえる敖倉(ごうそう)も修復する。造りは着実に進んでいた。

ただ、この年は肥が死に、義理の叔父(呂雉のである呂須(りょしゅ)の夫)にあたる樊噲(はんかい)が死去した。劉盈の周囲は寂しくなった。

孝恵六年(紀元前189年)、(かんえい)を将軍にして、兵を率いて、滎陽(けいよう)に駐屯させた。同じ氏とはいえ、諸侯王はしっかりおさえる必要があった。

同年8月、劉盈は死去する。まだ、23歳であった。

子には、長子として名が伝わらない某(恭ともいわれるが、誤写による間違いとのこと)と強(りゅうきょう)、不疑(りゅうふぎ)、りゅうこう)、りゅうちょう)、武(りゅうぶ)、太(りゅうたい)がいた。

某は劉盈の後、皇帝に即位し、前少と呼ばれるが、呂雉によって閉されて死ぬ(後述、「皇后」参照)。強と不疑は、病で死にしており、が代わって即位する(後少)。

後に、呂氏の乱が起きて、呂氏は絶滅させられ、(後少)、武、太は公式見解では、劉盈の子ではないとされ、全て誅殺される。

これによって、劉盈の血をつぐ男子は全て絶えてしまった。

評価

史記』では、司馬遷は、劉盈の在位期間は呂雉に実権があったとみなし、劉盈の本紀はないが、『書』にその評価が記されている。

書』において班固は、「恵帝(劉盈)は、族を愛し、宰相を礼遇し、恩と恭敬にあつかった。叔孫通の諫言を聞いて恐れ、曹参の進言を聞いて喜ぶ、といった寛大仁慈の君というべきである。呂太后(呂雉)のため、恵帝の仁徳が欠損されるようになったのは悲しいことである」と絶賛している。

劉盈は、惰弱な人物と評されることも多いが、全に政務を投げたわけではなく、彼の統治時代に漢王朝の基盤は固まり続け、蕭何曹参も名宰相として活躍することができた。また、劉邦氏と呂雉の呂氏と決定的な対立にいたらず、外交穏で、氏の諸侯王の反乱もなかった。

また、一人の人間として見れば、自分と太子を争い、位を脅かしうる関係であった如意をかばい、肥を助けたのは仁徳ある人物として評価されてもいい。

恵帝について

四晧(しこう)

四晧とは、本文でも述べた通り、劉邦傲慢不遜な性格であるため、山に逃れて隠れてしまい招いても漢王朝の臣とならなかった人物たちである。全員が老人であり、劉盈が連れていた彼らに劉邦が会った時、全員が80歳をえていた(戦国時代や、項羽に仕えていたかは不明)。

四人は、後世に四晧(四人の白髪の高潔な人物の意味)と呼ばれるようになる。

東園(とうえんこう)は、姓名を唐宣明(とうせんめい)といい、園に住んでいたので、東園を号とした。

(かこうこう)は、姓名を崔広(さいこう)といい、字を少(しょうつう)と言った。斉の出身で、里に隠居して、を修めた。そのため、を号とした。

先生(かくりせんせい)は河内(かだい)の軹(し)の出身。姓名を周術(しゅうじゅつ)といい、字を元(げんつう)と言った。都に住んで、覇上(はじょう)先生先生と号した。

綺里季(きりき)については不明であるが、『通俗楚軍談』では姓名を綺里季といい、(かんたん)の出身で元々、商南(しょうなん)という土地に隱居していたが、 後に東園友人として交際したとする。

四人はを避けるために、隠棲して己の出自を隠していたため、史書にもその詳細な記録は残っていないようである。

張皇后

の二代皇后となる皇后氏)は、本文で説明した通り、敖(張耳の子)と魯元(恵帝の)との間に生まれたである。兄弟偃(ちょうえん、張耳の項、「張耳の子孫たち」参照)がいる。

恵帝と自分の一族の呂氏との族関係を深くしたいと考えた呂雉によって、皇后となる。子が生まれるように方策をつくしたが、生まれなかった。そこで、氏は、みごもったようにみせかけた上で、恵帝の側室である美人(官職名)の子をわが子にして、そのを殺する。その子は太子となり、恵帝の死後、皇帝として即位した(前少)。

前少は、公式見解でも、一、恵帝の実子とされるが、即位した後に母親についての相を知ることになった。前少は、皇太后(呂雉と氏)に成人した後の報復を誓ったが、このことが呂雉に漏れてしまう。結局、前少は呂雉の命によって皇帝位をされ、閉されて死んだ。

後の「呂氏の乱」の時に、陳や周勃らによって呂氏は滅ぼされ、氏のみは助命されたが、皇太后の地位をされて、北宮に閉された。漢文元年(前179年)死去する。恵帝とともに葬られた。

恵帝の兄弟たち

ここでは、劉邦の子である恵帝の兄弟について、紹介する。他に、劉邦の子として、恵帝のである魯元張耳の項、「張耳に関連する人物たち」参照)と恒(りゅうこう、劉邦の四子。の文)がいる。

劉邦の八人の男子は全てが違い、は魯元ただ一人だったようである。

劉肥(りゅうひ)

劉邦の長子。

は、曹氏。曹氏は劉邦がまだ沛にいた頃のちんぴら時代の外婦(の外で生活する)で正式な妻ではなかった。そのため、肥は劉邦の後継者とはならなかった。なお、曹氏は曹参族ではないかという説や、肥の子が劉邦の「嫡孫」と呼ばれていることから、曹氏は劉邦正妻だった時期があるのではないか、と推測する研究者もいる。

肥がどのように育ったのか不明だが、『史記』の劉盈のエピソードとしてある呂雉の手伝いをして取りをしていたのは、実は肥だったのかもしれない。また、呂雉や祖とともに項羽の楚軍に捕らえられていた可性もある。

肥は、劉邦の子として、六年(紀元前201年)、七十を有した斉王となる。斉の丞相として曹参が就任し、まだ十代であった(「に富む」と記される)彼を支えた。

斉は次第に豊かなとなった。

やがて、曹参は、の相となり、孝恵二年(紀元前193年)に本文で書いた通り、呂雉に殺されそうになる。肥は事情を調べてから相を知ると、事に長安から脱出できないと心配した。そこで、斉の内吏(だいり、官職名)であった人物に相談すると、「皇太后(呂雉)には、陛下(劉盈)と魯元元、劉盈の)の二人の子がいるだけです。斉王(肥)は七十を有していますが、魯元は数しか与えられていません。一を魯元化粧代として、皇太后に献上すれば、皇太后は喜び、助かるでしょう」と進言される。

そこで、肥は呂雉に、を魯元に献上する。呂雉は喜び、肥の邸宅まで行き、宴を開いて楽しく飲む。肥は許されて、斉のに帰ることができた。

孝恵六年(紀元前189年)、死去する。彼もまた二十代の若さであったと思われる。

悼恵王(とうけいおう)と贈り名される。

劉如意(りゅうにょい)

劉邦の三子。

は、劉邦が軍を揮していた時代に、一身に寵を受けていた戚夫人。

二世三年(紀元前207年)に生まれる。如意に関する事績は基本的に本文の通りである。劉邦から、劉邦に似ているため、同様、寵を受けており、劉邦定後に、太子を劉盈から如意に代えたいと考えていた。

七年(紀元前200年)に、を捨てて逃げ帰ってきた伯父喜(りゅうき、劉邦の次)に代わって代王に封じられる。なお、赴任はしなかったようである。

九年(紀元前198年)に、劉邦から太子とするのはどうかと群臣に図るが、周ら群臣の反対により失敗する。された義の夫)にあたる王・敖に代わって、王に封じられる。如意が太子として立つことを反対した周如意を補佐するの相となった。なお、陳豨(ちんき)の乱により、赴任はすることはなかったようである。

十二年(紀元前195年)に、劉邦から再度、太子とするのはどうかと群臣に図るが、張良、叔孫通の反対や四晧の存在により、劉邦は断念する。この時に、如意はへ赴任する。

孝恵元年(紀元前194年)、丞相となった周により保護されるが、周が勅命によって都に召喚されてから、本文の通り、呂雉によって殺される。いまだ、14歳の幼さであった。陰王(いんおう)と贈り名されている。

『西雑記』には、彼の死に関する事件が記載されているが、史書とその内容は少し違う。呂雉は恵帝(劉盈)が狩りに出てから、役所の奴隷の一人であった力士の強い男)に命じて、如意を絞殺させる。力士如意の死体を袋にいれてに乗せて、呂雉のもとに運んだ。呂雉は力士に厚く褒美をした。

恵帝(劉盈)は後に相を知り、その力士(ようざん)の刑に処した。呂雉はこの処刑について知ることはなかったという。

劉恢(りゅうかい)

劉邦の五子。の名は伝わらない。

十一年(紀元前196年)に、彭越が誅殺されて後、梁王に封じられる。

呂太后七年(紀元前181年)、王となっていた友が呂雉によって餓死させられたため(後述)、呂雉の命によって、王に移される。恢は王となっていた兄弟が相次いで死んでいたこともあって不安におびえていた。

恢はこれまた呂雉の命によって、呂産(りょさん、呂雉のにあたる呂沢の子)のを后とすることになった。后に従うものは、全て呂氏一族であり、で権を振るい、恢は監視されて、自由にすることはできなかった。

恢が寵愛していた側室はいたが、后となった呂産のによって、鴆で殺された。恢は悲しみを託してを楽人に歌わせて、心なぐさめていたが、半年後に自害する。

呂雉は恢が婦人のことで自害したのは、宗(先祖と)の礼をる意思がないとして、恢の跡継ぎをした。共王と贈り名された。

劉友(りゅうゆう)

劉邦の六子。の名は伝わらない。

十一年(紀元前196年)に、陽(わいよう)王に封じられる。

孝恵元年(紀元前194年)、如意の死後に、王に移される。

友は呂氏の一族のを后としていたが、后を愛することはなく、側室ばかりを寵愛した。

呂氏の一族のは怒る。恵帝が死去した後、漢王朝の権勢を全に握っていた呂雉に「王(友)は、『呂氏がなぜ、王になるのか(呂雉は、自分の一族である呂氏を王位につかせていた)。私は皇太后(呂雉)の死後に、必ず、呂氏を撃つだろう』と話していました」と讒言する。

呂太后七年(紀元前181年)、死期が近かった呂雉は怒り、友を召して邸宅にいれたまま、衛兵に囲ませ食べ物を与えなかった上で、群臣のうちで、食糧を提供したものは罰するようにさせた。

友は、呂氏を恨んで、すぐに自害しなかったことを悔やみ、に託してを討ちたいという趣旨の詞を残して餓死する。王(ゆうおう)と贈り名される。

劉長(りゅうちょう)

劉邦の七子。

は、王・敖の側室にあたる美人(官職)の氏。劉邦を通過した時、敖が劉邦を歓待して、氏にいいことをさせてもてなした。

氏は劉邦の子である長をはらみ、八年(前199年)に生んだが、劉邦には伝えられないままであった。

九年(紀元前198年)に、敖の大臣である貫高(かんこう)の劉邦暗殺計画が発覚し、劉邦敖やその一族、側室をにつないだ。氏は劉邦との子がいることを述べたが、劉邦は放置した。呂雉や呂雉の心である審食其(しんいき)もとりなしを頼まれたが、放置された。

氏は自殺した。劉邦はそのことを聞いて後悔し、呂雉に母親として長を養育するように命じていた。

十一年(紀元前196年)に、黥布が反乱を起こしたため、彼に代わって南(わいなん)王に封じられる。

長は呂雉になつき、呂雉から寵を受けていたが、の死の相を知り、審食其を恨んでいた。長は才もあり、(かなえ)を挙げられるほどの大であった。

やがて、「呂氏の乱」により、呂氏が絶滅し、後少されて、紀元前180年に、長のである恒が皇帝に即位する(前漢の文)。この時、長も皇帝補に挙がったが19歳の若さであり、方の戚である「氏」に問題があることを理由にしりぞけられている。

すでに南に赴任していた長は自分が文一残ったであることを自負し、法律を守らなかった。長の行動は、文から見逃されていた。

三年(紀元前177年)、長は長安に入り、文と謁見し、一緒に狩猟をする。その時も文を「陛下」と呼ばず、「大兄さん)」と呼んで、とてもなれなれしかった。

さらに、長は、審食其に面会をめ、審食其と会うと、の椎(つい)で彼を殴り殺し、その首をとって、「審食其に三つの罪があります。一つは私のをとりなそうとしなかったこと、二つは戚夫人と如意が殺される時に諫めなかったこと、三つ目は呂氏が氏を迫したことを諫めなかったことです。どうぞ、陛下の手で私をお裁きください」と、文に報告した。文長をいたましく思い、一残った兄弟であるため、不問とした。

長のこの行動は、ただの増長や乱暴から来るものではなく、呂雉から育てられた長が滅ぼされた呂氏の党ではなくことを示すため、呂雉の心であったが、すでに権を失った審食其を殺したと見る研究者もいる。

長はに帰還後、さらに法令に従わないようになった。文は、長を厳しく責めることを避けて、文方のおじにあたる薄昭(はくしょう)に頼んで、長を諫める手紙を書かせる。長はその手紙をうけとって喜ばなかった。

六年(紀元前174年)、長は、の功臣である武(さいぶ)の子である奇(さいき)とともに、外である匈奴(きょうど)や閩越(びんえつ)に使者を送って謀反を起こそうとしていたとされて、逮捕される。

長の謀反については不明確なところもあったが、即位した文の邪魔になるため、どうしても長を罰したい夏侯嬰(ちょうそう)ら群臣は長の処刑をした。文長を処刑するには耐えきれず、謀反に加わったものだけを処刑し、長をの地にある宿場に流そうとした。

長は「わしはただ傲慢で、諫めるものがいなかったためにこのようになってしまった」と言って、食事を断って、自害した。文はこのことを聞いて悲しみ、長は列侯の礼で葬られ、四人の子はそれぞれ列侯に封じられた。

四年後に前述の肥の孫にあたる陽王喜が南王として替えされるまでされている。が再度置かれた際、長は厲王と諡された。

さらに四年後、喜が陽王に戻され、南の地は世した一人を除く長の三人の子たちに分割して与えられた。この三人の中に「南子」の著者として知られる安が居る。

劉建(りゅうけん)

劉邦の八子。の名は伝わらない。

十二年(紀元前195年)、前年に王であった盧綰(ろわん)が、匈奴に逃亡したので、代わって王に封じられる。

呂太后七年(紀元前181年)、死去する。建と美人(側室の官職名)との間に子はあったが、死期が近かった呂雉は、人を派遣してその子を殺させ、後継は絶やされた。霊王と贈り名されている。

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関連書籍

前漢国家構造の研究 (楯身智志 著 / 早稲田大学学術書)
(ISBN:978-4-657-16702-6 / 2016年3月5日発売 / ¥8,140)
(書籍購入リンク: 早稲田大学出版部exit / Amazonexit)
恵帝の統治期間は短く、彼のにあたる劉邦と呂雉の統治時代に挟まれ、その政策などを詳しく知るためには、専門書をあたるしかない。
本の値段も高い上に、かなり専門的ではあるが、内容が理解できるなら、恵帝の行った政策については、第一章第三節「前漢初期における「」・民爵賜与」、第二章第二節「前漢初期における劉邦集団の処遇」に詳しい。また、恵帝のである長についても、第六章「南王亡」で知ることができる。
前後を読んで理解していかなければ、内容の理解は難しいが、恵帝や蕭何、呂雉の行った前漢初期の政策について、興味がある方は読むことに挑戦してもいいかもしれない。

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掲示板

  • 10 ななしのよっしん

    2023/12/18(月) 00:27:13 ID: SUjWaT8Pan

    クソみてえな夫を持つ女の多くは子に償いをめる。こんな酷いに耐えた自分にお前が報いるのは当然だと。
    そんな子が長けているのは人の機嫌を伺う感覚であってそれは中華皇帝に必要な資質ではない。
    も呂雉の干渉は即位以来年を追うごと減っていったようなので逝しなければ普通に文のようになっていたのかもしれない。

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  • 11 ななしのよっしん

    2024/03/02(土) 07:48:06 ID: BKEDGagHkJ

    西恵帝前漢恵帝に負けず劣らずエピソード豊富なのに記事はいのか

    しかし司馬衷はいくら書の記述がでたらめだらけとは言え八王の乱とかその前とか何もしなかった時点で悪評は免れないんじゃないかな

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  • 12 ななしのよっしん

    2024/03/02(土) 20:21:22 ID: QB3S4YS9gF

    >>11
    劉禅からまともな部下を全部パージした状態みたいなもんだしな

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