悔い改めなさいとは、相手を正しい道へと導く救いの言葉である。
本記事では上記の2.について記載する。
ある日、いかりやビオランテは、悪名高い闇の妖精Van Darkholmeと、性地・新日暮里にて一戦♂を交えた。
神聖不可侵な性地をも恐れぬ、Vanの「Fuck♂You」という暴言に始まった闘争は熾烈を極め、憎しみの黒い炎はその暈を増すばかり。憎悪が支配した闘争は、どちらかを破壊し尽くすまで決して終わることは無い。しかし、そのような救いのない状況下で、ビオランテはVanにゲイバーホールドを極めつつ、慈悲の眼差しを湛えてはっきりと言った。
「悔い改めなさい」と
この言葉は、今まで憎悪を食らいながら生き、数多の善良な妖精たちを冥府魔道に突き落としてきたVanの心に、路傍に吐き捨てられたガムの如く、ねっとりとまとわりついて離れなくなった。
Vanは混乱していた。
幼少の頃、ベトナム戦争終結直前の、混乱の渦中にあった南ベトナムから家族と共に逃げ出し渡米したVanは、容姿の違いからイジメを受けていた。大人しく心優しいVan少年はなぜ自分がイジメられているのかわからず、毎日学校から家に帰っては、母親の胸で泣いていた。
「なぜみんな僕をイジメるんだろう?僕はみんなと仲良くしたいのに…どうして?ねえ、どうして?」
そんな彼を、母親はいつも優しく抱き抱え、慈愛に満ち溢れた手で頭を愛撫しながら、祖国の民謡を歌っていた。なにか慰めの言葉をかけるわけでもなく、ただただ歌うだけであった。Vanはその歌を聴くだけで、心安らかになり、イジメなど取るに足らない問題であると感じることができた。そして、泣きやんだ後は、一人夜の窓辺から星を眺め、物思いに耽っていた。お気に入りのスーパーマンのTシャツに袖を通して。
ある日、Van少年はいつものように、同級生からイジメをうけていた。
どうにかして身を庇おうと、必死に抵抗していた彼の頭が、偶然、イジメっ子のリーダー格である少年の鼻っ柱にぶち当たった。その少年は鼻血を出して、地面を、方羽をもがれた蛾のようにのた打ち回っていた。イジメに加わっていた他の少年たちは唖然として、ただその場に立ちつくすばかりであった。Van少年は血のついた額を拭おうともせず、1人歪んだ笑みを浮かべた。
この日を境に、Vanは変わってしまった。彼は大好きだったスーパーマンのTシャツを破り捨て、ボンデージに身を包んだ。それは、自らの過去を亡きものにして、修羅道に身を委ねるということを意味していた。
彼は、暴力によって相手を組伏し支配することに、心の安寧を見出したのである。
彼は思った。
―人間が他者に対して持ちうる関係とは、ただの二つだけだ。すなわち支配か、隷属か、だ。力で全てをねじ伏せることこそ、俺が求める幸福への近道となるだろう―
かつての大人しく心優しいVan少年の面影は、もはや完全に消え失せてしまった。
「早く世界を支配下に置いて、お袋に楽をさせてあげるからな。そしたら、俺たちはもう肌の色や容姿なんかでバカにされることはないんだ」
こんなVanの言葉を、彼の母親は悲しい笑みを浮かべて聞いていた。いつしか彼の家からは歌声が消えていた。
そして、ビオランテが発した「悔い改めなさい」という言葉は、人間を憎み、自らの下に屍を積み上げることで天を掴もうとしていたVanの心を、激しく揺るがした。
―こいつは俺を倒すために戦っているんじゃないのか?俺が憎くないのか?なぜ『悔い改めなさい』なんて言葉を俺に投げかけるのか?Fuck!納得いかねえ。闘いとは、相手を憎んで憎んで憎み通すことじゃなかったのか!?…それにどうしてこいつは、俺がこんなにも痛めつけているのに立ち上がってくるんだ?あんなに情けない声を漏らしてまでも…―
相手に改心を迫る、「悔い改めなさい」という言葉は、闘いを憎しみの発露の場、そして支配関係構築の場として認識しているVanにとって、不可解極まりないものであった。更にいうと、数知れぬ妖精たちを暗黒へと突き落としてきたエアパイズリやウマウマ固めといった奥義に幾度となく倒れても、それでもなお立ち上がってくるビオランテに、Vanは尋常ならざるものを感じていた。
―そういや確か、スーパーマンとかいう子ども騙しのヒーローはどれほど劣勢に追い込まれても、必ず立ち上がっていたっけな。Fuck!いかりやビオランテ…忌々しいヤツめ!―
遠い昔に「いらない」と、強がって捨てたはずの「大事なもの」。月日は流れ、忘れていた頃にふとまためぐり会う、あの「大事なもの」。それは追憶のように忘却を忘却させ、甘くゆるい懐古の情をVanの心のうちに呼び覚ます。しかし同時に、苦く悲しい記憶も蘇り、Vanの心を焼きつくような痛みとともに締め付ける。
しばらく味わうことのなかった、雑多な感情の渦に戸惑い、Vanの心に幾許かではあるが、迷いが生じた。
そう、ビオランテはVanと対峙した時にすでに見抜いていたのだ。Vanが幼少の頃より置かれていた数々の苦境を。彼の育った環境に対してビオランテは大いに心を痛めた。と同時に、激しい憤りを感じていた。Vanがあっさりと悪の道に身を委ねたことに対して。そしてなによりも、彼を支える者を悲しませたことに対して。
心に迷いのある者は、自ずと技にも迷いが現われる。迷いがある者に軍配が上がるほど、パンツレスリングは甘くない。
徐々に、ビオランテはVanを圧倒し始める。激しい技を交え、ぶつかり合う肉体の中で、Vanはビオランテの優しさを感じていた。今まで闘いの中に憎悪しか見出さなかったVanにとって、それは人生の意味を根底から問い直させる体験であった。
―こいつ、本当に俺を悔い改めさせようとして闘っているのか!?―
そう感じた直後、ビオランテの太い腕が、Vanの首に絡みつく。
―Fuck!これはマズイ…落とされちまう…でもなぜだ?…どこか…温かい…―
薄れゆく意識の中、Vanは、彼の首を強くそして優しく包み込むビオランテの腕から伝う温もりを感じていた。そして、無意識に両手を動かしていた。その姿はまるで、指揮を執っているかのようであった。世界を包み込むまっ白な"ファーモニー"を奏でる楽団の…
深い眠りの道すがら、Vanは恨みとも憎しみとも異なる、心地よい感情に身を委ねていた。
その時、彼には聞こえていたのだろう。幼い頃、泣いていた自分を優しく包んでくれた"あの歌"が。
パンツレスリング。これほどまでに奥深い哲学を、私は知らない。それは、相手を倒すためだけに鍛え上げられた肉体で、暴力を思うままにふるう野蛮なスポーツではないと断言できる。パンツレスリングの哲学たる所以――パンツレスリングに対する哲学的立場は論者によって千差万別であろう、だがここでは僭越ながら私見を述べる――それは、言語性に帰結するものであると考えられる。否、超言語性といったほうが適切であろう。パンツレスリングは、鋼のような肉体を通して表情豊かに、語るのである、笑うのである、怒るのである、悲しむのである、憐れむのである、泣くのである。それは言語以上に、正確で、明晰で、論理的で、思弁的で、抒情的で、一片の歪みもなく、遍く人類の脳髄に響く。
思うに、パンツレスリングという哲学の発見は、既存の哲学を崩壊に至らしめた。まず、近代西洋哲学に根強く残っている言語哲学はもはやその根拠を無くす。言語以上に雄弁に語る肉体を前にして、口から発せられる音を至上命題として崇拝するということは、もはや愚昧であるとしかいえない。さらに、言語哲学に対する批判的文脈として登場する身体論にも、舞台からの退場を願わざるを得ない。確かに、例えばマイケル・ポランニーの「暗黙知」議論に端を発する、言語化されざる知に関する一連の議論は、ある程度の価値を持つものであるが、それでもパンツレスリングの前には沈黙せざるを得ない。というのも、パンツレスリングは、それぞれの身体性が、全ての人類に例外なく、個別性を超えて直接的に語りかけることが出来るからである。つまり、パンツレスリングは、個別具体的な身体を超えた、普遍的な意志伝達システムを有しているのである。畢竟、パンツレスリングは、言語以上に言語的で、身体以上の身体性を備えているといえよう。私が先ほど、「超言語性」と述べた所以である。
くだくだと例を挙げることは憚られるので、私の主張の真偽に関しては、読者の方々が直接、動画に当たって判断してほしい。木魂するケツドラム、破れ散るパンツ、握られるナウい息子、チャベス・オバマ大統領の肉体演説、スーパーカズヤのため息が出るほどの肉体美、兄貴の抑揚の効いた、韻文的かつ散文的な休日の過ごし方。それらすべてを自らの尻で、ナウい息子で、目で、舌で、耳で、鼻で、肌で、そして脳髄で感じてほしい。そして、そこから感じたことを、それぞれの一生をかけて考え抜くべき哲学として、今後の人生を送っていただきたい。その哲学は決して答えが導き出せるものではないのかもしれない。だが、思い悩む必要はない。パンツレスラーたちも皆、どこにあるとも知れぬ答えを探し求めて、日々闘っているのだから。
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最終更新:2023/03/22(水) 00:00
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