慕容紹宗は南北朝時代の北魏・東魏の武将。宇宙大将軍侯景の師匠であり、謀反した侯景を打ち破って、梁まで追い落とした人物である。生没年501年~549年。
字も紹宗。昌黎郡棘城県の人。五胡十六国時代に前燕の皇帝となった、慕容氏(鮮卑族)の末裔といわれ、祖父や父は北魏で州刺史を務めている。
当時の北魏は「六鎮の乱」と呼ばれる大規模な反乱によって混乱しており、慕容紹宗の一家は、母親の親戚である爾朱栄を頼って身を寄せる事となる。
爾朱栄は軍閥の棟梁で、北魏の朝廷をも牛耳る実力者であった。慕容紹宗の人となりは「容貌恢毅,少言,深沈有胆略」とあり、爾朱栄に気に入られて、側近として用いられた。
朝廷との権力争いに苛立っていた爾朱栄は「要人たちを皆殺しにしてしまおうか」と慕容紹宗に相談したが、慕容紹宗は朝廷の腐敗を認めながらも「手荒い事をするのは長期的に良くない」と爾朱栄を諌めている。しかし、爾朱栄は聞き入れずに、528年に皇太后と幼帝を黄河に沈め、二千人の皇族朝臣たちを殺害する「河陰の変」を引き起こしてしまう。後に専横が過ぎて皇帝から憎まれた爾朱栄は暗殺されている。
爾朱氏の陣営にいた時に、慕容紹宗は高歓と侯景に出会っている。高歓は後に爾朱氏に反逆し、北魏の東半分を奪い取って東魏を興す英雄である。最初、慕容紹宗は高歓を警戒して、排除するように進言しているが、却下されている。
後に慕容紹宗と戦う事となる侯景も、高歓と共に爾朱氏に属していた。侯景は慕容紹宗から初めて兵法を学んだという。不遜な侯景も慕容紹宗には敬意を持ち、たびたび紹宗の元に訪れては教えを乞うている。なお、侯景は慕容紹宗より二歳年下である。
その侯景であるが、正史である「南史」「梁書」では、それぞれ人物に差異があり「梁書」では「驍勇有膂力,善騎射(勇猛で力が強く、騎射を良くした)」とあり、慕容紹宗から教えを受けたという記述が載っていない。
「南史」では「景右足短,弓馬非其長,所在唯以智謀(右足が短かったので、弓馬が得意ではなく、智謀が武器であった)」と知性派となっており、こちらには慕容紹宗から教えを受けた事が載っている。
爾朱氏の武将として、たびたび反乱を鎮圧してきた慕容紹宗であったが、高歓の反乱では敗北してしまい。爾朱氏の残党を率いて高歓に降伏した。高歓はこれを歓迎して、慕容紹宗を軍略に参与させて重用した。
534年に東魏を建国した高歓の下でも、慕容紹宗は多くの武勲を重ねて昇進し、また地図や書籍にも明るく諸事を司る事もあった。
こうして高歓を中心とした新王朝の基盤が築かれる中で、一人野望を抱いている男がいた。今や河南大行台として、十三州と兵十万人を専制する侯景である。高歓には服従していた侯景であったが、親しい者には「高王(高歓)が生きてる間は従うが、鮮卑の小僧(息子の高澄)になど誰が仕えるものか」ともらして、牙を研いでいた。高歓と高澄も侯景の逆心を承知しており、死期を悟った高歓は高澄に「侯景に勝てる者はただ慕容紹宗が有るのみ。だから私は彼を遠ざけていた。お前は慕容紹宗を引き立たてて、侯景に当たらせろ」と遺言した。
547年に高歓が死ぬと、はたして侯景は起兵した。高澄は地方にいた慕容紹宗を召還して、東南道行台として開府を許し、討伐軍を編成した。
最初は余裕の侯景であった。かつての同僚である東魏の将軍たちを侯景は評価しておらず「しょせんは猪武者」と見下していた。しかし討伐軍に慕容紹宗がいると知ると、「いったい誰が慕容紹宗をよこすように鮮卑の小僧に教えたのだ?まさか高王は生きているのではないのか?」と、鞍を叩いて恐れだした。侯景は南朝の梁と交渉して援軍を引き出す事に成功したが、慕容紹宗は十万人の軍勢を率いて梁軍を撃破し、主将の蕭淵明を捕らえた。
侯景の強さには、慕容紹宗も苦戦を強いられている。この時の侯景の手元には直属の精鋭四万人が健在であり、「詭計と背後を突く事を好む」という侯景の戦術も冴えており、慕容紹宗も落馬して敗れる事もあった。この事を味方の斛律光と張恃顕から詰られると、「私は今まで多く戦ってきたが、侯景ほどの強敵はいなかった。ならばお前たちも戦ってみるがいい。ただし河を渡って戦うなよ」と言って送り出した。
侯景はやってきた二人が河を渡ってこないので「慕容紹宗の入れ知恵だな」と警戒しつつも打ち破った。張恃顕が捕虜となり、斛律光が二頭の乗馬を失って戻って来ると慕容紹宗は、「それで私を責められるのか!」と言い返した。戦術的には侯景に分があったが、慕容紹宗が固く守って持久戦に持ち込むと、数ヶ月後には侯景軍の兵糧が尽きて、軍は四散した。
わずか八百人の手勢となり、梁に逃げ込もうとする侯景を慕容紹宗は追撃するが、侯景からの使者に「もし侯景を捕えて、公はふたたび用いられるのか!」と命乞い(忠告)をされたので、慕容紹宗は侯景を見逃したという。
梁へと逃れた侯景がどうなったのかは個別記事を参照。功績によって元の爵位である燕郡公に、永楽県子が加えられた。
549年。西魏との戦闘において、慕容紹宗は西魏軍を水攻めにして船で視察していたところ、にわかな暴風雨で敵軍へと流されてしまう。捕虜となる事を拒んだ慕容紹宗は、河に身を投げて死んだ。その死は三軍の将士たちを皆悲しませ、朝廷を嘆息させた。使持節・二青二兗斉済光七州軍事・尚書令・太尉・青州刺史の位が追贈。諡は景恵。
長男の慕容士粛は、謀反を企んで処刑された。慕容紹宗の功績に免じて、罪は一族に連座されずに許された。
次男の慕容三蔵は父譲りの武勇を持つ誠実な人物だったので、北周の武帝や、隋の文帝(楊堅)といった時の勝利者から評価された。地位と生命を全うして隋の大将軍まで登った。以後の子孫たちの中には唐の高官となった者が少なくなかったが、文官として身を立てた者が多い。
782年に慕容紹宗は武廟六十四将の一人として祀られている。
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