懐かし外人単語

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懐かし外人(もしくは懐かし助っ人)とは、プロ野球世界で、あまり成績を残していない外国人選手、変わったエピソードのある選手、あるいはカルト人気を誇っていた外国人選手たちをす。

概要

毎年、プロ野球の各球団には2~3人程度、多い球団(巨人中日楽天など)には4~5人の外国人選手が入団する。しかし、日本ブレイクするのはほんの一握りだけ。あとは、すべてがネタ外人と化し姿を消す。その中でも、何か特筆すべきことをやってのけた選手が“懐かし外人”と呼ばれる。

ロバート・ローズ(元横浜)やランディ・バース(元阪神)など、実績を残した選手も懐かし外人と言われるが、それは普通野球ファンの方のみで、コア野球ファンダメ外人ネタキャラ外人を懐かし外人と呼ぶ。

本項では、懐かし外人を所属していたリーグごとに記述していく。なお、両リーグに所属した経験がある選手は、基本的には所属期間が長いリーグの方に記述していく。
(所属年数が同じ場合は先に所属していたリーグを優先。一部例外の選手アリ。)

「あー、こんな選手いたな」「この選手そんなエピソードあるんだ」という感じでなるべく多くの選手を広く浅くピックアップし、軽く読める記事を標とする。

また、優秀な成績を残した選手であっても、変わったエピソードや成績、事件や言動のあった選手も一部記述する場合もある。ネタではなく活躍した外国人選手については「助っ人外国人」の項も参照していただきたい。ネタを含む選手もいるので一部重複して記載されている選手もいる。

大百科記事のある選手名は太字で表示。

自由契約後、移籍・再契約した選手が記載されている場合があります。ご了承下さい。

主な懐かし外人

セ・リーグ

名前 在籍 所属 概要
ジョー・ペピトー 1973年-
1974年
ヤクルト NPB史上最悪の外国人選手の呼びも。問題行動は数え切れない。彼の問題行動の詳細はWikipediaexitで。
シクスト・レスカー 1987年 大洋 140km/hの速球が怖くなった。体力限界」と言ってシーズン中に現役引退を表明。
リック・ランセロッティ 1987年-
1988年
広島 登録名「リチャードランス
最低打率(.218)最多三振(114個)で本塁打王(39本)タイトルを獲得。
ランスゴン!」と言われしまれた。
ルパート・ジョーンズ 1988年 阪神 NPB史上初の背番号「00」
来日時、既に肩を悲惨なほど故障していた(返球は全て下手投げだった)。
アン・アイケルバーガー 1989年 ヤクルト サヨナラ暴投という前代未聞の事態をやらかしたいわばサヨナラ
当時、ヤクルト監督であった関根潤三氏が「名前がおもしろかったから獲った」と発言。
陳義信 1989年-
1990年
中日 NPBにおいて下の名前を登録名にした初のアジア
登録名は「義信(ヨシノブ)」
ベニー・ディステファーノ 1990年 中日 NPB史上初のオープン戦退場者。星野喧嘩野球徴的な乱闘要員。
ジョーイ・マイヤー 1990年 大洋 人気者のカルロス・ポンセ二軍に追いやってまで獲得した巨大砲打率.275本塁打26本と打撃成績はまあまあであったが、鈍足と守備のまずさが問題視され一年で解雇された。
ちなみに、元横綱曙太郎のいとこである。
フェリックス・ペルドモ 1992年
1996年-
1999年
広島 内野手として入団し、途中で投手に転向した。1999年には再び内野手登録に戻るが、投手としても何度も登板している。
しかし、この年は外国人野手と投手はそれぞれ二人までしか登録してはならないルールになっており、内野手登録のペルドモをマウンドに送るのはルール違反ではないものの限りなくグレーであった。
マットステアーズ 1993年 中日 日本ではパッとしなかったが、その後2011年(43歳)までMLBプレーするなど息の長い選手だった。
通算12球団在籍は当時史上1位通算代打本塁打23本はMLB記録
レックスハドラー 1993年 ヤクルト 寄食として有名。ミミズを踊り食いし、チームメイトドン引きさせ「ミミズ」のあだ名メディアにつけられる。その後アリセミまで食べていた。
打率.300本塁打14本を記録するなど貢献度は大きかった。
ロブ・ディアー 1994年 阪神 2億7000万円の大扇風機MLB史上最低シーズン打率.179を記録、通算三振数も1379と非常に多かった。ちなみに通算本塁打数は226本
三振ホームランかという典的なバッターだった。
ダン・グラッデン 1994年 巨人 リードオフマンとして期待され入団したものの、守備走塁は明らか劣化していた。危険球退場ルールが導入されるきっかけとなる、ヤクルト中西捕手との乱闘が有名
ヘンリー・コトー 1994年 巨人 佐々岡真司に食らった頭部死球が有名である(当時の珍プレー好プレーでも取り上げられた)。佐々危険球退場となるのだが、明らかにコトーの避け方が下手なせいで当たった死球であったため、惨事ではなくネタ扱いされていた。
投手に強く、日本シリーズでも優秀選手賞にくなど活躍したものの、守備のまずさもあり一年で解雇された。
エリック・ヒルマン 1995年-
1998年
ロッテ
巨人
ロッテ時代は良部、小宮山とともにエースとして活躍。
巨人移籍後「肩に小錦が乗っているようだ」「肩にジャックナイフが刺さっているようだ」登板拒否を繰り返しMr.違和感といわれるようになってしまい、ナベツネから「をやるから出て行け」とまで言われてしまいシーズン途中解雇となってしまった。
後に左肩回旋筋腱の全層断裂が判明。違和感事実であった事が判明。
ジェフマント 1996年 巨人 ナベツネ「クスリとマントは逆から読んだらダメなんだ」
バルビーノ・ガルベス 1996年-
2000年
巨人 96年16勝で最多勝受賞。そのオフに出演したCMにて「カルシウムブソク、シテイマセンカ?」のフレーズ人気を博す。打者としても優秀でNPB一「1シーズンに2度満塁本塁打を放った投手」でもある。
しかし98年、判定に不を抱き、球審の橘高に向かってボールを投げつけ、「シーズン残り試合出場停止」という処分を受けた。
レイグ・ワーシントン 1996年 阪神 「打ってレイ、たのんマース
バースとマース、1字違いで大違い
ケヴィン・マース 1996年
マイク・グリーンウェル 1997年 阪神 球団史上最高額の年俸3億円で入団。自打球で骨折野球を辞めろという神のお告げ」と突然引退宣言をし帰してしまった。実働期間はなんと8日、ある意味伝説の助っ人。「史上最悪の詐欺師」と揶揄されることも。
ちなみにボストン・レッドソックスチーム殿堂入り選手でもある。
フィルハイアット 1997年 阪神 ハイアウト」夫人のミスティハイアットは元ソフトボール代表選手。
ルイス・デロスサントス 1997年 巨人 台湾イチローの触れ込みで入団。
蓋を開けてみれば鈍足(暴走)&拙守&極度の打撃不振と全く使い物にならなかった。
長嶋茂雄監督ゴールデングラブ賞を受賞したと思い込んでいたが、台湾球界時代の3年間で62失策だった。
ペドロ・カステヤーノ 1997年 巨人 ルイスが使い物にならず緊急補強として来日。しかし結果はお察しください。
マリアーノ・ダンカン 1998年 巨人 前年のルイスカステヤーノの失敗を踏まえて獲得。MLB通算1247安打の実績を誇り、期待されていたが…。
李鍾範 1998年-
2001年
中日 Jリーという称でも知られた「韓国核弾頭
日本プロ野球ファンからも敬された宣銅烈投手を慕って中日に入団した。
ファイト溢れる積極果敢なプレーから彼を評価するファンも多かったが、死球による骨折以降成績が急降下した。
李尚勲 1998年-
1999年
登録名は「サムソン・リーロン毛の金髪が特徴的な左腕のピッチャー
二年の途中にリリーフに転向、ストッパー宣銅烈に繋ぐ鉄壁リリーフの一となった。
ホセマラ 1998年 横浜 開幕2試合のみ活躍。「振ったところにボールが来ない」という迷言を残す。
マーク・エーカー 1998年-
1999年
ヤクルト 先発11試合で防御率2.34と安定感を見せるも、0勝2敗でシーズンを終える。
ムエンゴに泣かされたのでたぶんエーカー本人の責任ではないはず
ダレル・メイ 1998年-
2001年
阪神
巨人
野村克也監督との確執で中傷ビラを配ったり、死球松井秀喜を怒らせるなど問題行動は多かったものの、阪神巨人ローテーションの中心として活躍するなど実は確かなものだった。
デーブ・ニルソン 2000年 中日 登録名「ディンゴ
日本で活躍できなかったが、シドニー五輪日本戦でホームランを放つ。
クターアルモンテ 2001年-
2002年
巨人 ドカベン岩鬼正美のように口に葉っぱを咥えてマウンドに。
オレはまだ眠っている。」
という迷言を残す。
デーブ・ドスター 2001年 横浜 ロバート・ローズの慰留に失敗したため獲得した両助っ人。ドスターローズよりもはるかに守備は良かったもののチャンスに弱く、ズーバーは規定打席未達ながらも打率.310を残すが2HRしか放てず(膝の故障のせいと言われている)両名とも一年限りで退団となった。
ジョン・ズーバー
ケビンミラー 2003年契約→来日拒否 中日 来日拒否後、ボストン・レッドソックスに入団。これにより、中日はしばらくアメリカから選手を獲得できなかった。
その後、代わりに獲得したアレックス・オチョアが大活躍。
ちなみにメジャーリーグ公式チャンネルの番組内において、川崎宗則とのインタビュー爆笑しているのは彼。
ジミー・ハースト 2003年 広島 カープボブ・サップ」と期待されていた。
クリスブロック 2003年-
2004年
広島 投手なのに打率.318,2本塁打,6二塁打代打で起用され死球を受けたり、三盗をしたことも。
スティーブ・コックス 2003年 横浜 3年7億円で契約するも15試合出場のみ。契約を残り2年を残し退団。
おまけのつもりで獲得したタイロン・ウッズの方が大当たりだったというオチまでつく。
マットホワイトサイド 2003年 横浜 守護と期待されて入団するも、救援失敗が続きわずか3ヶ自由契約
クリス・レイサム 2003年-
2004年
巨人 二死でボールスタンドに投げ入れ高橋尚成完封勝利を逃す原因となる。
トッド・ベッツ 2003年 ヤクルト ロベルト・ペタジーニを埋めるべく入団するも、それなりの活躍は出来ず。
初来日時、球団関係者にベッツと全く関係の観光客を取材されたエピソードは有名
マイクキンケード 2004年 阪神 26試合で死球が12個
ダン・ミセリ 2005年 巨人 防御率23.63。浅草観光をして帰っていった。
ゲーブ・キャプラー 2005年 巨人 打率1割台と極度の不振だったが起用され続けた。
巨人退団後、日本生活スタイルや食生活染めなかったとり、「日本に言ったことを後悔している」とコメントを残した。
リックガトームソン 2005年-2008年 ヤクルト
ソフトバンク
本塁打ノーヒットノーラン記録するなどかしい実績もあるが、ホークスに在籍時の2007年ドーピング違反で処分された。
ただし、ここで摘発されたのはフィナステリド、要するに毛生えである
現在は禁止物から除外されている)。
ケビン・ウィット 2005年
2007年
横浜
楽天
ミセリとのプロとは思えぬ低レベルな対戦は「ニコニコ迷勝負」に数えられるほどであった。
李炳圭 2007年-
2009年
中日 案の定である。韓国イチローの触れ込みで入団した「赤兎馬
しかし故障ので走攻守全てにおいて中途半端だった。
一方でポストシーズンでは類の強さを発揮した。
ルイスゴンザレス 2007年-
2008年
巨人 ドーピングが発覚し、1年間出場停止処分。その直後、球団から解雇された。
ジャレッド・フェルナンデス 2007年 広島 NPB初の純正ナックルボーラー
エステバンジャン 2007年 阪神 ボーク王。たった1年で歴代通算ボーク数の9位タイに名を連ねる。しかも、ボーク直後の投球で危険球退場を受けたことが2度
アーロン・ガイエル 2007年-
2011年
ヤクルト 魔将ガイエル間をめる程度の能力を持つとされ、「一飛安」や「左ゴ本」といった奇妙なヒット記録した。
打率にもかかわらず四死球が多く非常に高い出塁率記録し、1イニング2死球プロ野球最多タイ記録マークしたりもしていた。
トラビス・ヒューズ 2008年 横浜 ピッチャーヒューズ!やる大矢のお気に入りという設定があった。
炎上すると「ヒューズが飛んだ」と揶揄された。
ダニエルリオ 2008年 ヤクルト 禁止物使用で解雇
スコットシーボル 2008年-
2009年
広島 シーボル先生。25番という男から背番号ポジションを引き継ぐ。
ケビン・メンチ 2009年 阪神 グリーンウェルの再来
大砲として期待されるもHR0、打点2という低成績に終わってしまった。
マキシモ・ネルソン 2008年-
2012年
中日 2010年キャンプ地に移動する際、手荷物の鞄から実弾が見つかり銃刀法違反容疑で逮捕された。故意ではなく、本人も深く反省していたため後に釈放。NPBから三ヶの出場停止処分が下された。
成績自体は中日黄金時代の中にあって開幕投手を務めたり、吉見チェンらとともにシーズン通してローテーションを守るなど安定した活躍を見せた。
スコット・ドーマン 2009年 広島 敗戦処理投球回0/3(要するに1アウトも取れず降)を2試合記録
2試合千葉ロッテ戦、1イニング15失点を喫した戦犯ひとりとなる
ジャスティン・ヒューバー 2010年 広島 野村謙二郎監督が直々に獲得した選手。ビーバーでもヒーハーでもない。
ディオニス・セサル 2010年 中日 ディオニス☆自演乙☆セサルセサる。どこで守れるメキシコリーグ首位打者という前評判で入団。
しかし、どこを守らせても下手、打撃もイマイチだった。
ジョエル・グスマン 2011年 中日 館山キラー。しかし他の投手からは…。
ブライアン・バニスター 2011年 巨人 プレーせずに引退
ラスティ・ライアル 2011年 巨人 さよなライアル
ブレント・リーチ 2011年 横浜 震災時、様々な理由から来日できなくなり、NPB史上初の制限選手に。
その後、来日するも精を欠いた。
クレイトン・ハミルトン 2011年-
2012年
横浜-
DeNA
現役選手と思えないほどファンサービスを熱心に行っていたが、成績は振るわず。
ブランドン・マン 2011年-
2012年
2019年
横浜-
DeNA
ロッテ
ハミルトンと共に人当たりの良さで人気だったが、結果は残せず。
様々なチームを渡り歩き7年後にロッテに入団。
交流戦では古巣の横浜戦に登板し、横浜在籍時に仲の良かった筒香嘉智を打ち取る恩返しなど中継ぎでまずまず活躍をするも、シーズン中盤に故障。オフに戦外になった。
王溢正 2010年-
2013年
横浜-
DeNA
横浜にもこんな選手がいるんだ!(*^◯^*)
日本では活躍できなかったが、後に台湾代表や選抜チームメンバーとして度々来日している。
ジョン・ボウカー 2012年-
2013年
2014年
巨人
楽天
開幕から大不振で退団濃厚だったが、ポストシーズンで大活躍。さらに日本シリーズ前、球団から「結果を残さなければ残留は」と通告されていたが、7打点を挙げ優秀選手賞に。「ファンを裏切ったままでは帰れない」と、一軍確約し、年俸の大幅減ながらも巨人に残留。ネット上では「BOW」「ボウちゃん欲しい?ん?』『あーげないwwww」などネタキャラに仕立て上げられたりとファンから色んな意味でされた選手だった。
ブルックス・コンラッド 2013年 阪神 補として期待され獲得。オープン戦の活躍を評価され開幕から起用されたものの、新井兄弟とのポジション争いに絡めるはずもなく、本塁打ゼロ打点ゼロシーズンを終える。
クリス・ラルー 2013年 ヤクルト 来日初登板・初先発試合で1試合3ボーク・1イニング2ボーク。同年のセ・リーグ最多ボーク記録。さらに、秋田での試合で壇蜜に悩殺され大炎上
ナイジャー・モーガン 2013年 DeNA メジャーで最もクレイジーな男」「悪童」など前評判は最悪なものだった。しかし、いざ来日してみると底抜けに明るい性格でチームファンを盛り上げ続けた。
試合中は「トニー・プラッシュ」という別人格でプレイ。腕で「T」のポーズヒーローインタビューでの「アバヨ!」相手チームファンであろうとコミュニケーションを取るなどファンサービスにも熱心だった。
プレー人気の両面でチームに貢献したものの、銭面で折り合いがつかず1年限りでの退団。多くのファンが彼の退団を惜しんでいた。
ユリエスキ・グリエル 2014年-
2015年
DeNA キューバ至宝。その前評判通り14年度はシーズン途中加入ながら.305、11HRと活躍した。しかし翌年、を理由に来日拒否。同じく契約が内定していたルルデスグリエルとともに一度もチームに合流することなく契約解除となった。飛行機嫌い、日本食が苦手など繊細な面もある選手でもあった。
その後アメリカ亡命アストロズワールドシリーズ制覇に貢献する。
フレデリク・セペダ 2014年-
2015年
巨人 キューバレジェンド。しかし成績は在籍2年間で.163(15年は21打数安打.000)と、全く活躍できなかった。一方で、二軍降格後も練習したり他の選手にアドバイスを送ったりと人間性の高さは評価が高かった。
フアンフランシス 2015年 巨人 サード村田修一らの不調により緊急補強。しかし、18打席で11三振扇風機っぷりを発揮。鈍足なうえにサヨナラインフィールドフライを献上するなど守備の判断も非常に悪かった。
オーバーエイトで来日した点や、二軍降格後、練習サボったり首チームメイト無視するなど素行面にも問題があった。
マイク・ザガースキー 2015年
2016年
広島
DeNA
183cm109kgとかなりぽっちゃりとした体格。投球後に転んだ姿が「かわいい」と評判になったりした。マイナー時代スコット・マシソンルームメイトを数匹飼っていた。なおザガースキー本人は猫アレルギー持ち。好物はハイチュウで、同僚の前田健太三浦大輔から大量のハイチュウプレゼントされ喜んでいた。
デュアン・ビロウ 2015年 DeNA 登板で1回1/3を自責点5(四球5)、防御率33.75と散々なデビュー
試合後、中畑清監督から「プロレベルではない。」「今日でその名前を忘れよう…」と酷評された。
ローガン・オンドルセク 2015-
2016年
ヤクルト 15年はロマンバーネットとともに必勝パターンとして活躍。しかし翌年、助っ人リーダー格であったバーネットの退団以降、練習サボり話し込む、登板拒否など怠慢な態度立つようになる。
6月に味方のエラーから救援失敗。その際にベンチで首チームメイトに暴言を吐くなど悪態をつき期限の自宅謹慎処分に。
その後、謝罪はしたものの、本人が「との対立から精的に立ち直ることが困難」ということでシーズン途中での退団となった。
ホセガルシア 2016年 巨人 得点不足に悩んでいた巨人シーズン途中に獲得。しかし、4試合で7打数安打と結果を残せずわずか4ヶシーズン中退団。時、飛行機の乗り継ぎ先であるフランスにて消息不明に。(亡命したとされている。)
ジェイミー・ロマック 2016年 DeNA バルディリス退団の埋めとして獲得。長距離として期待されたものの85打席で8安打2打点打率.113(三振30)と散々な結果に終わる。
シーズン途中温厚なアレックス・ラミレス監督に「慢の限界にきている」とコメントさせるなど期待を大きく裏切り続けた。
マイク・ブロードウェイ 2016年 DeNA ロードウェイミュージカル
MAX160キロえの速球を売りにシーズン途中加入。
しかしデビュー戦で初球をいきなり被弾。その後も1回3安打5失点と大炎上「全ベイが泣いた」「エリック・コーディエの再来と揶揄された。
リカルドナニータ 2016年 中日 長打は少ないがシュアなバッティングで活躍。
ナニータ!ナニータ!ナニータ!オイ!オイ!オイ!」というに残る独特なコール話題に。この応援は本人も気に入っていたようで、Twitterで時折つぶやいていた。
ラウル・バルデス 2015-
2017年
中日 称はバルデスおじさん。安定感抜群の投球を見せるも、毎回打線の援護に恵まれない。
そんな姿を見かねたファンたちが17年に「バルデスオールスター」という運動SNSで展開、監督推薦で出場した。
エリアン・エレラ 2016年-
2017年
DeNA 内野ならどこでも守れるユーティリティ。助っ人獲得にことごとく失敗したDeNAが緊急獲得。便利屋として重宝され人柄の良さもありファンからされた。タレント菊地亜美と顔がそっくり。それが元で菊地亜美DeNAファンになり、エリアンの事をお兄ちゃんと呼び気にかけていた。
ロマン・メンデス 2017年 阪神 リリーフの強化、前年活躍したドリスが肘の不安で再契約に至らない可性などを踏まえて獲得。(後にドリスキャンプ前に再契約)
同時期に在籍していたリス、マテオと「長身黒人・ドレッドヘアー・」といった外見的特長が似ており、三人そろってリリーフ投手という事もあり見分けがつかないと一部のファンの間で話題になった。
ライアン・ブレイシ 2017年 広島 MAX159キロ直球武器リリーフ投手
何故かどの映像写真を見ても首が斜めに曲がっていた
翌年レッドソックスに入団。34試合登板防御率1.60、10ホールドワールドシリーズ制覇に貢献した。
ジョー・ウィーランド 2017年-
2018年
DeNA ローテーションの一として活躍し初年度は10勝を挙げる活躍。
特筆すべきは高い打撃であり、シーズン3HRを放つなど投打で活躍し、8番に投手を置くラミレス采配に合致する選手であった。
打撃面では広島戦を得意にしており、打率.538 3HR 9打点マーク代打で起用されサヨナラに繋がる四球を選んだexit_nicovideoこともあった。
ヤンガービス・ソラーテ 2019年 阪神 メジャー時代の称は「セクシータイム」。
加入直後にサヨナラHRを放つも守備面に難があり二軍落ち。
その後モチベーションが上がらない」事を理由に一軍昇格を拒否し、自由契約に。
この件は、契約時と異なる起用法でストレスが溜まっていた、前年に奥さんを亡くしており精的に不安定であった、などの情報摘されている。

パ・リーグ

名前 在籍 所属 概要
マニー 1964年 大毎 苗字が放送コードに引っかかるため登録名をマニーに。
ちなみにフルネームは「フランクマンコビッチ」。←反転で読めます、気になる方はどうぞ。
アルト・ロペス 1968年-
1973年
東京-
ロッテ
ヤクルト
オリオンズが「ヘクターロペス」と勘違いして獲得した選手として、トリビアの泉紹介されたことが有名。
しかし、そんなフロントの失態とは裏な大活躍を見せる。
バールスノー 1974年 日本ハム 初任給を持ち逃げし、失踪。パ・リーグ初の期限失格選手に。
ちなみに、日本ハム初のカタカナ登録の選手でもある。
フランク・ハワーソ 1975年 太平洋クラブ メジャー本塁打王として入団。しかし、既に膝の状態が限界えており、歩く事さえさえままならない状態だった。その後開幕戦1試合のみ出場し、シーズン途中(5月)に退団した。更に退団時に銭面で一悶着があった。
リチャード・デービス 1984年-
1988年
近鉄 東尾修から死球を受けて昂、マウンドに走り寄り東尾を殴打した。
ベストナインに選出されるなど活躍したが、大麻不法所持で逮捕解雇された。
ベン・オグリビー 1987年-
1988年
近鉄 非常に紳士的な人柄で知られた。某掲示板に言えば「ぐう聖」。
ビルマドロック 1988年 ロッテ メジャー首位打者(4度受賞)。しかしピークをとっくに過ぎた状態で来日したため成績は振るわず。サザエさんのOP曲が応援歌に使用されていた。
川崎球場にはマドロック立ち入り禁止」落書きが書かれていた。
マイク・イースラー 1988年-
1989年
日本ハム 細かすぎて伝わらない独特の打法話題に。成績の方は2年間(NPB)で.302となかなかの活躍を見せた。なお本人は落下しない。
ジム・トレーバー 1990年-
1991年
近鉄 乱闘の際、ロッテ金田正一監督に顔面を蹴られるが、退場処分を受けたのはトレーバーのみ。
ちなみにその試合を、当時小学生で後にプロ入りする石川雅規藤田太陽が観戦していた。
マット・ウインタース 1990年-
1994年
日本ハム 踊るホームラン王ファンメディア笑顔で対応したり、たまに手品も披露する、イニング間に相手のチアダンサーと踊るなどファンサービスにも積極的に取り組んでいた。
ドン・シュルジー 1990年-
1992年
オリックス パ・リーグ指名打者制を導入して以降初めての投手による本塁打記録現在でも)。
ケルビン・トーベ 1992年-
1993年
オリックス 初年度は打率は.305と活躍するも、二年NPB野手ワーストの53打席連続安打という不名誉な記録を打ち立ててしまった。
ホセ・トレンティー 1993年 西武 デストラーデの後釜として入団したが、結果はお察しください。
メルホール 1993年-
1995年
ロッテ
中日
ヤンキースの4番打者として鳴り物入りで来日。1年チーム4冠と期待に応えた。
しかし、自分の打席が終わると隣室でテレビゲームをする、自分の経歴を棚に上げ、チームメイトミューレンをパシリにした挙句いじめなど、非常に素行が悪く問題児であった。
後にチームメイトだった愛甲猛氏が自著で「史上最低野球選手」と酷評。
引退後に数々の罪を重ねて禁固45年の刑を受けた。
ブライアントラックラー 1994年 ダイエー 175cmと小柄ながら100kgを肥える体で「コロコロちゃん」の称でしまれた。人気者ではあったが大の好きによる不摂生が祟って一年で解雇
大好きなは職だけでなく命までも奪ってしまう。2004年肝硬変によりわずか37年の生涯を終えることとなってしまった。
ケビン・ミッチェル 1995年 ダイエー 駒田徳広以来、初打席満塁ホーマーを放ったが、5月故障を理由に勝手に帰7月再来日した際にチームがまさかこのようになっているとは思っていなかった」という迷言を残す。しかし8月再度勝手に帰、そのまま退団となった。その際銭面で球団と揉め、「と共に去りぬ」とも揶揄された。引退後も相変わらずなようで、実の父親トラブルの末に殴打し逮捕された事も…。
ティムマッキントッシュ 1995年 日本ハム アイケルバーガー、ハートグレイブスシュールストロムと並びNPB史上最長の登録名(8文字
アメリカ時代は捕手としてもプレーしていたため、阪神大震災支援日本人外国人の対抗戦でマスクを被る予定であったが、それを待たずして解雇されてしまった。
ピートインカビリア 1995年 ロッテ マイナー落ちしたことのないメジャーリーガー」として入団。しかし日本野球に全く染めず低迷。応援団からも応援拒否された事も。
その後乱闘で脱臼しキャリア初の二軍落ち
ホセ・ヌーニェス 1996年-
1997年
ダイエー 三塁線へのバントの打球を、息を吹きかけてファールにしようとしたプレーで有名。後に某野球ゲームオープニング映像にてオマージュされる。
ジェームスボニ 1997年-
1998年
オリックス 二軍三冠王。しかし一軍ではヒットを打てず。
エリック・シュールストロム 1998年-
2001年
日本ハム
広島
選手としてはな成績。引退後、広島スカウトとして覚醒、優良助っ人を多数発掘するなど第二の野球人生で大成功した男。
アーキーシアンフロッコ 1999年 西武 マルティネスの後釜として入団したが…。また、同年にブロッサー、ジンターも獲得したが、結果はお察しください。
コーリーポール 1998年-
2001年
西武 上記選手の不振のため入団したが、翌年以降フェルナンデスカブレラマクレーンなどの選手におしだれて2軍閉。その2軍では2年連続で三冠王獲得。01年にイースタン・リーグ記録した27本塁打大森剛と並んで当時の最多タイ記録。(09年に中田翔が30本塁打更新)
許銘傑 2000年-
2013年
西武
オリックス
許さん2011年から2013年の登録名は「ミンチェ」。
トニー・ミッチェル 2001年 ダイエー ケビン・ミッチェルの従兄弟
TV番組で「ミッチェルの助っ人日記」というコーナーを担当していた。
ケビンと異なり温厚な性格だったが、乱闘時に大暴れ。その際に脱げたヘルメットの下によけのために着用していた水泳帽が露わとなり「水泳帽の悪魔」として一部で話題に。
ジェレミー・パウエル 2001年-
2008年
近鉄
オリックス
巨人
ソフトバンク
オリックス在籍時の登録名「JP」。
最多勝を獲得するなど活躍したが、二重契約問題を下げてしまった。
陳文賓 2003年 ダイエー 日本台湾間で初のトレード。しかし活躍できなかった。
リック・ショート 2003年
2006年-
2009年
ロッテ
楽天
名前ショートであるにも関わらず日本球界では一度も遊撃手を守ったことがなかった。
楽天時代には首位打者を獲得するなどシュアな打撃で活躍した。
ヘクター・カラスコ 2004年 近鉄 炎上した中継ぎ投手が「~スコ」と言われるようになった元
ロングリリーフとしての適正はあったものの、抑えとしての適性はイマイチであった。
グレッグ・ラロッカ 2004年-
2005年
2006年
2007年-
2010年
広島
ヤクルト
オリックス
とにかく死球が多く、07年にはNPB1シーズン最多死球である28死球記録した。死球記録達成時にはオリックス死球記録グッズを発売していた。
故障が多かったものの、堅実な守備と勝負強い打撃でファンを沸かせた。
ルイス・ロペス 2005年 楽天 ロ・ロ・ロペスワンマンショー
楽天の初代助っ人。球団初の死球満塁本塁打をそれぞれ記録したが、成績はいまひとつだった。
トニー・バティスタ 2005年 ソフトバンク 独特の打法)で活躍したメジャーリーガー2年15億6000万で入団するも1年限りで退団。
石川雅規から死球を受けた直後の乱闘回避シーンは有名。
クリストファー・ギッセル 2006年-
2007年
西武 外国人ワーストタイ記録となる9連敗。
ジェーソン・ジョンソン 2007年 西武 松坂大輔を埋めるため、3億5000万で入団したが、立った活躍はできず。
ドミンゴ・グスマン 2002年-
2008年
横浜
中日
楽天
横浜中日時代はローテーション投手として活躍。楽天移籍後リリーフに転向。しかし救援失敗が続き「ンゴw」の元ネタとなってしまう。
1試合4ボーク,1イニング3ボーク日本記録18打席連続三振世界記録という記録を複数持っている。
ヒラム・ボカチカ 2008年-
2009年
西武 オナカスイタネ!
カルロス・ムニス 2009年-
2010年
ロッテ 二軍首位打者を獲得する活躍。しかし一軍では結果が出ず。
ブラジル亡命し、2013年WBCブラジル代表として出場。
ランディ・ルイーズ 2010年-
2012年
楽天
DeNA
ファーストしか守れないにも関わらず、守備は当時の山崎武司以下だった。
涌井キラー。しかしそれ以外の投手では・・・。
金泰均 2010年-
2011年
ロッテ ユニホームの背ネーム表記が「TAEKYUN」だったため、「たえきゅん」と呼ばれた。
1年HR王争いをするなど成績は残したが、2年統一球が導入されると全く対応出来ず、成績不振で二軍降格後、契約解除。
契約解消の理由を「日本では野球が面くなかったため」など発言し、去っていった。
ブラッド・ペニー 2012年 ソフトバンク わずか1ヶ程度の在籍。数々の問題行動や発言でファンを呆れさせた。
ユニエスキー・ベタンコート 2014年 オリックス 開幕から極度の打撃不振。故障と成績不振で二軍落ち。
故障の原因である外反趾の手術のため帰するも、戻ってこず解雇された。二軍では試合を欠場、練習サボるなどやる気を喪失していた模様。
コーディ・ランサム 2014年 西武 妙に中毒性のある応援歌が一部で「ランサム」と呼ばれていた。
レッツゴ-コ-ディ-ラ-ンサ-ムラ-ンサ-ムラ↑-ンサ-ム レッツゴ-コ-ディ-ラ-ンサ-ム オッオッオッオオー
ケビン・ユーキリス 2014年 楽天 メジャー復帰したケーシー・マギーを埋めるべく年俸3億円で契約
レッドソックスの4番打者ということもあり期待されたが振るわず。
その後怪の治療のために帰し、日本に戻ることなく引退した。
ルークファンミル 2014年 楽天 NPB球団所属経験がある選手で歴代最長身216cm
故に登場曲は進撃の巨人」の「紅蓮の弓矢。 
チャッド・ハフマン 2014年-
2015年
ロッテ ハフ満足」どんな走塁時は常に全疾走、フェンス際だろうと取れそうな打球にはダイビングするなど、常に全プレーする姿はファンから評価が高かった。
ウェイド・ルブラン 2015年 西武 来日時、空港で「Youは何しに日本へ?」の取材を偶然受ける。
その後密着取材となったが、活躍できず。
西武退団後に、様々なチームを渡り歩いた末マリナーズ投手になった。
アンソニー・セラテリ 2015年 西武 投手捕手以外のポジションならどこでも出来る両打ちのユーティリティプレイヤー
更に、シーズンオフには映像会社の社長俳優もこなすなど多才であった。
ジョニー・ゴームズ 2016年 楽天 メジャー通算162本塁打の実績を引っさげ来日、リーダーシップを発揮することを期待されていた。しかし成績を残せず庭の事情を理由に帰。その後、コミュニケーションが上手く取れない点や、初めて経験した大地震恐怖を覚えた点(福岡遠征中に熊本地震に遭遇)を理由に本人から退団申し出た。
エリック・コーディエ 2016年 オリックス MAX160キロの速球が武器の抑え補として入団。しかしストライクを全く取れないノーコンピッチャー。対中日戦では3者連続四球を与え1死も取らずに降中日打線文字通り手も足も出せなかった(四球)
ファンから「ウンコーディエ」とまで揶揄され、登板する度掲示板では「ディエーwww」の文字が踊った。
ブライアン・ボグセビッグ 2016年 オリックス 糸井をえる俊足、打って走れる選手として獲得。
しかし、打率.187、3HR15打点4盗塁と期待を大きく裏切った。
アンディ・バンヘッケン 2016年 西武 韓国野球での活躍が評価され先発として獲得。
しかし10試合に先発し、0勝4敗防御率6.31と期待を大きく裏切り、シーズン途中の7月解雇された。
退団時「もっとチャンスが欲しかった」とコメントを残す。
ヤマイコ・ナバー 2016年 ロッテ KBO外国人選手シーズン48本塁打シーズン記録を達成し鳴り物入りで入団。
しかしキャンプ途中で、拳銃の実包1発を所持が判明、銃刀法違反容疑で逮捕
その後不起訴処分となり、1ヶの出場停止後に出場。
シーズン通して打率.217、10HR44打点と期待された結果は残せなかった。
ブライアン・シュリッター 2017年 西武 手薄なリリーフを埋めるために入団。シーズン中盤まではセットアッパーとして活躍するも、終盤戦に対策され打ち込まれる場面が立った。
登板すると掲示板で「シュレッダー」という所謂暖簾スレが立ち「御社」と呼ばれ一部のファンしまれていた。
ジミー・パラデス 2017年 ロッテ デスパイネの抜けたを埋めるために獲得。しかし同時期に入団したダフィーとともに開幕から極度の不振でチーム低迷の一因となってしまう。
武士居合りするようなフォームで空振りを連発したため「サムライスイング」と揶揄された。
エルサントス 2017年 ロッテ ダフィー、パラデスコンビが開幕から不振、チーム成績も大きく低迷したため緊急獲得したWBCキューバ代表選手。
俊足が持ち味で、長所を活かすために走り打ちをすることも多かった
ただし盗塁や走塁の技術はイマイチだった。
ジョシュコラレス 2017年-
2018年
楽天 独立リーグから格安で獲得してきた投手
優勝争い中の試合で先発したものの炎上、後続の投手炎上し17失点の大敗。以降楽天が失速したためこの試合が「コラレスショック」と命名されてしまった(擁護すると彼以外に登板した投手全員炎上している)。
翌年も残留するも、一軍登板0に終わった。
クリス・マレーロ 2017年-
2019年
オリックス シーズン途中加入ながら20HRを放つ活躍を見せた。
日本でのデビュー戦で本塁打を放つも、ホームベースを踏み忘れアウトに。
以降の試合ではHRを打つと両足でしっかりと本塁を踏むパフォーマンスをするようになった。
同年には、NPB公式戦通算10万号本塁打を放っている。

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