懐良親王単語

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懐良親王(?~1383)とは、後醍醐天皇の皇子である。

概要

建武政権崩壊後各地に派遣された皇子の一人。10にも満たない年齢であったが、征西将軍に任じられ九州すこととなる。陸路は足利氏に抑えられていたため、中院義定、五条頼元ら従者と四国経由で路を行く。

伊予忽那氏を頼り、軍増強などに明け暮れた後、1342年に薩摩に上陸。反島津肝付氏伊集院氏を自営に引き込む。
当時九州の南は肥後の菊池氏がいたが、一色範氏少弐頼尚らと交戦中であり、わずかばかりの援軍しか送れなかった。さらに島津貞久は伊集院を攻め、菊池氏との連絡を遮断してしまう。こうして身動きの取れなくなった懐良親王は、1347年にようやく路に活路を見出し、翌年肥後入りを果たしに征政府を置く。

このころになると観応の擾乱が起き、尊氏一色範氏、直義足利直冬少弐頼尚、そして南方の懐良親王のみつどもえ状態に陥っていた。1351年、足利尊氏足利直義討伐のために南と手を結ぶと、一色範氏も南に降り、これに対し懐良親王は菊池武光、恵良惟澄、惟教らを率いて大宰府に進撃し、直長門に追いやることとなる。

続いて直が南に降ると少弐頼尚は南に降る一方、一色範氏は北に戻る。その結果1355年に懐良親王は菊池武澄、少弐頼尚を率いて一色範氏討伐に向かい、針摺原の戦い、大友氏泰の降伏などを経て、一色範氏一色直氏、一色ら探題勢は長門へと逃走した。

こうして、懐良親王は足利直冬九州探題勢の駆逐に成功したのである。さらに薩摩三条泰季を送ると、日向畠山直顕と交戦中だった島津氏は耐え切れず降伏。さらに菊池氏の支援を受けて畠山直顕をも敗走させる。こうして南九州を制圧したが今度は大友氏時、少弐頼尚らが反旗を翻す。

五条頼元、中院義定、菊池武光、岩盛依、名和長九州の南勢を総結集させた軍を率い、大保原で両軍は突。懐良親王は重傷を負ったものの、幕府軍を破る。さらに1361年に大宰府を占領して、九州北部を南方に置くことに成功した。教科書などでよく知られているように彼は明と独自に交易をおこない、このまま歴史が進めば九州独立が形成されていた可性もわずかながらあったかもしれない。

しかし1372年に今川了俊に大宰府が奪還される。それでもなお懐良親王は抵抗を続けるが、1383年の彼の死をもって九州の南は衰退に向かい、南北朝合一へと向かっていくのである。

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掲示板

  • 1ななしのよっしん

    2017/10/14(土) 15:51:10 ID: CwJOm1qSM2

    京都の動乱に絡まなかったからか知名度が低いけど菊池武光セット九州の英傑だよな
    荒れに荒れていた九州をほぼ全に制圧して外圧も全部跳ねのけて十年くらい維持するとかさらっと凄いことを

    惜しむらくは九州を制覇して上を企てるころには他の南が既に呼応できる状態になかったことか

  • 2ななしのよっしん

    2019/09/08(日) 08:35:48 ID: fszlofpMRd

    日本国王良懐とか見てたら中国正史における日本の記述ってどこまで正しいのかなって思ってしまうわ

  • 3ななしのよっしん

    2020/01/02(木) 04:56:31 ID: 7LA9vexO4p

    太祖の脅しに対する毅然とした返答が素晴らしい

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