批判単語

ヒハン

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批判とは、

  1. 人や物事の誤った箇所や悪い部分を、根拠を示しながら論理的摘し、善をめること
  2. 1.から転じて、特定の物事に対する信頼性を欠いたネガティブな否定や非難、攻撃をすること。
  3. (特に文化芸術の分野において)人物や作品などの良し悪しを判断し評価する、それについて議論を行うこと。批評とも言われる。
  4. 哲学の分野において)人間の知識・思想の認識の基盤を研究把握することで成立の条件や妥当性、限界などを考察すること。

を意味する。

反省や否定としての「批判」

この定義における「批判」は特定の物事について誤った部分を摘したり、それらの善をめることをして使われる。その役割柄否定的な意味合いが付加しがちなため、印が強くなることもあってか、特に「批判」という言葉を聞いて連想される事が多い定義でもある。

なお、この定義における「批判」とは思い込みを可な限りし、適切な根拠と論理的摘で善をめること」「対を理解して状況の向上を的とする事」す。逆に相手の過失や欠点、悪い点をあげつらって、「個人的な充足感的で感情的に責める事」「相手への敬意を欠いた中傷や攻撃を行う事」は、適切な「批判」とは位置づけされず、に「否定」や「非難」等と表現されて区別されている。

正しい「批判」を行うには、客観的思考や豊富な知識、理性的な態度、そして何よりも「批判をする相手に対する理解や思いやり」と「議論を行う前提としての深い信頼関係」が必要となってくる。
ただ闇に相手の悪い所を摘して責めるだけというのは、独りよがりに自分の感情を相手に押し付けただけであり、それでは実な対応は望むべくもない。

また、批判という行動自体も本来一定以上の知識や理解、言動を要するものであり、容易に行えるものではないということにも注意が必要である。

例えば、ある物事における「つまんね」という個人的感情を、それをきっかけとしつつも「批判」という段階にするには、何故「つまらない」と感じたのかをその物事への分析と理解を重ねた上で適切な根拠として組み立て、その上でどうすれば「つまらない所が善できるか」という点を論理的に、かつ相手に理解してもらえるように気を配りながら説明しなければならない。

さらに必要な要素はそれだけではなく、自身の信頼性や相手との関係性の確保にまで及ぶ。批判とは議論でもあるため、そもそも深く話を聞いてもらうためには事前に一定の信頼を得ている必要がある。その条件は当然批判の分野や濃さに例して厳しくなっていく上に、特にインターネット上のような不特定多数が基本的に制限なく関わる場所となるとデマや扇動、なりすまし等の諸問題による相互不信の連鎖も絡みあい、その重要性は大きく跳ね上がっていくことになる。今や態度言動を整えたフリをした中傷なども前提の時代、「批判のための批判」ではない意あるっ当な意見と思ってもらうのはとてつもなく難しくなっているのが現状である。

そして重要なのは批判する「場所」である。どれだけ切丁寧に文章を起こして、論理的正論でもな人に対してはただの雑音であり、悪意のある集団から見れば恰好の叩き棒である。特定の個人や組織であれば見てくれる可性が高い場所で批判するのであって不特定多数の場所で表しようものなら悪意がある集団がそれを曲解したり文言を捏造して拡散する危険性を考慮しなければならない。自分は適切な批判をしたと思ったらいつのまにかアンチの御輿に載せられてアンチ代表みたいな存在にされてしまう可性がある。

ここまでの手間暇をかけて行うことになる「批判」は、する側にもされる側にも多大なストレスがかかり、また多くの時間とエネルギーが必要となってくる。そして最も重要な事はそこまでして行われた「批判」も「受け入れられるとは限らない」し「必ず受け入れなければいけないわけではない」ということである。そこでこんなに大変な手間をかけたのに…とか思うのは批判する側の個人的事情でしかないし、絶対に正しい事として「批判」を自称して利用することなど以ての外である。

これらのことから、ここニコニコ動画の場合、文字数が限られたコメント論理的に「批判」を行うことは大変困難であり、またコメントが全てアップロード者に伝わるわけではないため、本当に伝えたい「批判」ならばコメントを使用せず、他の方法で伝えようとするのが確実である。逆に理に「批判」をこの場で行おうとしても正しく利用される、そして受け入れられる可性は非常に低いと言わざるを得ない。

それでも何か相手に善をめたいのであれば、相手の良い所を見つけ、互いに理解できる部分を探し、肯定的な言葉で相手を認める、といった「共感」を積極的に行っていった方が、いきなり「批判」を行おうとするよりも、ずっと容易かつ確実に相手への善を波の立ちにくい形で促せると思われます。

ニコニコ動画に限りませんが、不適切な「非難」は論、難易度の高い「批判」も控え、とりあえずまずは「共感」をすることあたりから始めてはどうでしょうか。

また、非難されていると感じている方はとりあえず一度冷静になって考えてみてください。まずは「一々聞く必要はない」と理せず構えてみるのが良いでしょう。創作者の場合は反応があるということはあなたの作品を観ている人がいると思考を変えてみるのも手です。確かに悪い評価ではありますが、それでも評価を下されていることに変わりはないし、その上であくまで取捨選択するのは自分であると意識することも大事かもしれません。

その上で、もし自分が信じるに足る「批判」に出会うことができたら、それは辛くとも自身を高める大事な助けとして利用するくらいの心意気で挑んでいくと良いでしょう。

「批判」は人々の関係が不適切な慣れ合いになってしまわないためには必要なものであるが、重要であるがゆえにその扱いは困難を極める。そして、相互理解を伴わない不適切な対立を正当化するための具でもないということは、深く意識しておきたいところである。

評価や議論としての「批判」

良し悪しを判断、評価することを意味する。

紛らわしいためよく勘違いされるが、この定義に基づいた場合「〇〇が悪い」といったネガティブだけでなく「〇〇が良い」といったポジティブも「批判」に含まれることになる。この場合、例えばある動画で「批判するなら帰れ」という意見をにした場合、その動画にある [例1]感情がこもってない [例2]が綺麗でいい 例1、2両方のコメントに向けて言ってることになったりする。

そのような定義の相違によって会話が拗れるような場面もしばしばで、特に現代では「批判」という言葉に上記の否定としてのの定義に基づくネガティブな印が強く認識されているため「批評」や「評論」または「レビュー」などと呼ばれて区別がされるようにもなっている。

ただ「評論家」などのように区別した上でも更にネガティブイメージが侵食していく場合もあり、この手の分野においては避けることの出来ない宿命なのかもしれない。

カント哲学における「批判」

他の学説を批判するという行為は哲学上でも見られることだが、哲学カントの「批判」概念については、通常の「批判」とは異なる意味がこめられている。

カントは、「人間理性限界を批判的に吟味する」という意味で「批判」という言葉を使っている(詳しくはイマヌエル・カント参照)。

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最終更新:2024/03/19(火) 11:00

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最終更新:2024/03/19(火) 11:00

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