(じとうてんのう 645年~703年1月13日)とは、国号を「日本」と定めた第41代天皇である。女帝。
の歌を詠んだ万葉歌人でもある。
天智天皇と遠智娘(おちのいらつめ)の間に生まれる。大田皇女(おおたのひめみこ)は同母姉。
657年に叔父にあたる大海人皇子に13歳で嫁ぎ、662年に草壁皇子(くさかべのみこ)を設けた。
なお同母姉の大田皇女や他の二人の姉妹も大海人皇子に嫁いでおり、当初は、姉であり大津皇子(おおつのみこ)を産んだ大田皇女が最も身分の高い妻であったが、667年に姉が亡くなると最も身分の高い妻となった。
父の天智天皇がお隠れになると、夫の大海人皇子が壬申の乱を起こして弘文天皇を自害に追い込み、天武天皇として即位すると自らは皇后に立てられた。天武天皇の治世では政治について助言していたと言われており、天武天皇が病に伏せた際は、
686年に天武天皇がお隠れになられると、実姉が亡くなった後に自らが養育していた大津皇子が皇位を継承せんと反乱を起こそうとしたことが露見して自殺する事件が発生した。大津皇子の自殺は、実子の草壁皇子に皇位を継承させようとする持統天皇の謀略とも言われている。しかし2年3ヶ月にも及ぶ天武天皇の葬礼が終わり草壁皇子が即位するかと思われた689年に、草壁皇子は病気で亡くなってしまった為、自らが即位した。
即位した持統天皇は、律令国家の建設と新たな都の建設という天武天皇が目指した二つの国家プロジェクトを引き継いで推進し、区画整理された都である藤原京の建設に着手し、国号を「日本」と定めるなど女帝としては日本の歴史上初めて自ら政務を執り行った他、柿本人麻呂を宮廷詩人として庇護して自らを賛美する歌を作らせた。
697年に草壁皇子の子の軽皇子を立太子すると同年8月に譲位し(後の文武天皇)、皇室の歴史上初の太上天皇いわゆる上皇となった。自らの治世は8年間と短かったが、上皇となって後も文武天皇と共に政務を執り、大宝律令の制定と施行にかかわったといわれている。
702年にお隠れになられると、その身は皇室の歴史上初めて火葬にされたといわれている。
持統天皇と言う諡号は、漢風諡号を持たない神武天皇から元正天皇までの44代(弘文天皇と文武天皇を除く)に対して、奈良時代の文人「淡海三船」が漢風諡号を一括撰進して以降呼ばれるようになったもので、日本書紀では高天原廣野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)と呼ばれている。なお持統は「継体持統」という熟語が元といわれている。
意外に思われるかもしれないが、古代の日本は子供を母親の家で育て母親の家の構成員とカウントし成人したら父親の仕事や役職を受け継ぐ「双系社会」であった。詳しくは永井路子や三田誠広や笠原英彦や瀧浪貞子の本を読んでもらいたい。
夫と母親の異なる弟が対立していたら夫の側につくのは当然である。夫に複数の妻がいてそれぞれに子供がいたら自分の子供に皇位を継がせるようとするのも当然と言える。
日本書紀の中で天武天皇と持統天皇の記述が多いのは編纂した当時の人にとって我々にとっての明治天皇のような重要な天皇だったことを示しているのだろう。
40代 | 41代 | 42代 |
天武天皇(てんむてんのう) 673~686 |
持統天皇(じとうてんのう) 686~697 |
文武天皇(もんむてんのう) 697~707 |
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最終更新:2025/04/01(火) 02:00
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