シナジヘン
支那事変とは、昭和12年(1937年)〜昭和16年(1941年)の期間、盧溝橋事件に端を発する大日本帝国と中華民国における戦闘である。
「日中戦争」と表現すると1941年以後も含み、1945年まで継続したことになる。
支那事変は昭和12年7月に盧溝橋を発端に北支(華北)へと戦闘が拡大。第二次上海事変勃発後は、中支(華中)、さらには大陸全土へと広がっていった。
なぜ支那事変という呼称が用いられたかについてだが、当初は両国とも宣戦布告をおこなわなかったためである。(戦争とは宣戦布告をした上でおこなわれる戦闘であるのに対し、事変は宣戦布告がないままおこなわれる戦闘である。)
宣戦布告がされなかった理由であるが、中国の場合、戦争になると第三国に中立の義務が生じ、外国の支援がなくなり戦闘継続困難になると考えられたためで、日本の場合は国際的孤立を避けるためであった。
昭和16年(1941年)の日米開戦の後、中国は宣戦布告をおこない、支那事変は戦争へとなった。(大東亜戦争の一部ということになった。)
犬猿の仲である蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党が手を組み、連合国のバックアップの元8年にも渡る長い戦いが始まった。
1945年8月15日のポツダム宣言受諾に伴う日本降伏後、日中戦争は終結。
そして中国国民党と中国共産党の協力関係は終わり、国共内戦という第二の戦いが再開されることになる・・・
20世紀、帝国主義絶頂期、ヨーロッパ・アメリカ列強はアジア・アフリカの植民地化を推し進めていた。
中国大陸は日本を含む列強各国によって租界と呼ばれる外国人居留地が無数に存在していた。
その状況を憂いた孫文は革命を起こし、清朝を滅亡させると「列強に負けない強い中国」を目指し中国統一を推し進めた。しかし、中国内部は分裂し、各軍閥が中国統一を目指した。所謂、軍閥割拠時代である。
第一次世界大戦後、ロシア帝国、ドイツ帝国、トルコ帝国などの消滅により全世界で民族自決運動が展開。
植民地各国でも独立運動が盛んとなった。租界地でもテロ活動が活発になり列強各国は警備の為に軍隊を派遣する。日本も相次ぐ破壊活動(現地邦人が拉致殺害、商店の襲撃)により軍隊を派遣する。中国軍閥同士の争いも活発になった。
1921年、中国共産党が結成される。孫文の後継者、蒋介石は反共主義者であり、中国共産党がクーデターを企画しているとして共産党員を多数処刑している。(上海クーデター)
これにより中華民国(国民党)と中国共産党による国共内戦(1927年)が始まる。
同年、日本は中華民国の北伐(中国国内の軍閥を潰し全国統一を目指すこと)に刺激を受け、山東省に出兵を決定。第三次山東出兵まで行った。それにより中国人の感情が、反欧米から反日に転換した。
現地では小規模な衝突が起こり国民党軍兵士による日本民間人の射殺事件も起こり、日本世論も反中、嫌中になった。
1930年、満州事変が起こり満州国が誕生する。これにより、中国人及び大陸での権益独占を狙っていたアメリカが反発。日本は国際非難(主に植民地を持っている欧米)を浴び国際連盟を脱退する。
1933年、国共内戦は国民党軍が中国共産党を壊滅寸前まで追いつめていた。共産党軍は長征(撤退)を行う。
蒋介石は大日本帝国との関係補修を図るが、テロ活動が活発になり日本人の襲撃が止まず両国の溝は深まるだけだった。
そんな中、西安事件が発生し、軟禁された蒋介石はやむを得ず共産党との戦闘を中断し、日本との戦いに向かう。
1937年、当時北支に居留民保護の為、駐在していた日本陸軍部隊の演習中に実弾が二発発砲され盧溝橋事件が勃発する。(国民党か共産党どちらが撃ったかは謎)事件は沈静化するも、国民党政府と日本政府は派兵を決定。日本政府は派兵しながらも不拡大方針を声明、現地解決を閣議決定した。
しかし、中国共産党は対日戦争を呼びかけると、蒋介石もやむを得ない場合は全面対決すると声明した。
中華民国政府は、日本に配慮して事件の沈静化を狙う停戦協定を申し出るも、再び国民党軍(正規軍)による攻撃が始り、同年7月に国民党軍は日本に対し武力行使を行うと正式に決まった。
国民党軍は早速、北京及び天津の電線切断作戦を展開。修理に訪れた日本軍を襲撃する事件、郎坊事件が発生した。日本軍は修理した電線で援軍を要請。翌日には、日本軍戦闘機による国民党軍陣地を空襲して陣地を占領。日本軍は、事情の説明を求めるも国民党軍より回答はなかった。
また、居留民保護の為、出動していた日本軍に国民党軍が発砲する広安門事件が発生。
さらに在留日本人230人が虐殺される通州事件が起こると日本国内世論は激昂し「暴戻支那膺懲」を唱えて
もはや全面戦争も辞さない構えとなった。
これにより不拡大方針派から拡大方針派へ支持が集まるようになった。
上海では、盧溝橋事件前から日本軍と国民党軍との間では険悪な空気が漂っていた。
1936年4月には中華民国に駐在していたドイツ軍事顧問団団長ファルケンハウゼンは蒋介石に対日開戦を進言、1936年末には上海停戦協定を破って、上海の非武装地帯に陣地構築を行っていた。国民党軍は精鋭部隊を配備。特に教導総隊などは、前記したドイツ軍事顧問団から訓練を受け、ドイツ製の武器を装備しており、最精鋭部隊と評価されていた。また一部の部隊は毒ガスを装備していた。
1937年、北支事変が起こると緊張は一気に高まり一触即発の様相を呈していた。
そんな中、日本海軍軍人銃撃事件(大山海軍中尉事件)、日本海軍水兵拉致事件が発生。衝突は時間の問題となった。
8月12日、国民党軍約3万が上海市内の国際共同租界の日本人地区を包囲。対する日本軍は、海軍陸戦隊4千だけだった。日本側は撤退を要求するも、聞き入れられず、陸軍に増援を要請した。
13日には中国側の銃撃により戦闘開始。
日本海軍陸戦隊は応戦する積極的な攻撃を行わず、もっぱら防戦一方であった。国民党軍機が爆撃を行っても対空戦闘を行わなかった。しかし砲撃も始まり、15日には日本政府も不拡大方針を撤回。海軍航空隊による初の渡洋爆撃を敢行。また日本各地の特別陸戦隊を上海に派遣、国民党軍の攻撃が続く中、各拠点を死守した。
8月23日、上海派遣軍(日本陸軍2個師団)が上陸。攻勢に出るも、強固なトーチカに阻まれ思うように進撃が出来なかった。
10月、上海派遣軍はゼークトラインを攻撃し突破。これは第一次世界大戦の戦いを経験しない日本軍が初めて経験した塹壕突破作戦だった。
上海はほぼ日本軍が制圧した。しかし、一部の陣地は突破できずにいた。
11月、第10軍(日本軍)が広州に上陸すると、国民党軍は退路を断たれる危険から一斉に退却を開始。
退却中は日本軍に物資を使用させないようにと公共施設から民家まで全て破壊した。
上海派遣軍は第10軍と共に追撃に出るが、退却のスピードが速く捕捉出来なかった。
第二次上海事変で国民党軍が敗退すると、早期に戦闘を終わらせようと現地軍(日本軍)は追撃戦に移行した。大本営(1937年設置)は作戦範囲から逸脱すると停止命令を打診する。
しかし、早期解決の判断から追撃を容認、首都南京攻略戦の許可を出した。
12月、日本軍は南京へ攻撃を開始する。蒋介石率いる中華民国首脳部及び役人は南京総指揮官を残して全員逃げ出し、無政府状態となり、市内のインフラ整備が全て止まってしまった。
日本軍による降伏勧告も無視され、総攻撃が始まった。南京総司令官は「各自脱出して集結せよ」と命令を残して脱出。しかし、後方には督戦隊が逃亡する味方将兵に攻撃を行っていた。
日本軍は南京市内に突入。残党を排除する。その過程で南京事件が発生する。殺害人数や方法、動機や命令の有無などを巡り議論が絶えず、現在でも事件の詳細は不明なままである。
日本国内では南京陥落を祝い提灯行列など祝賀会が開けれた。
しかし、既に蒋介石は首都を南京から重慶へ移し、徹底抗戦の構えを見せていた。
中国共産党の毛沢東は南京陥落の報を受けて祝杯を上げて、大喜びした。
南京を陥落ものの、国民党軍の殲滅に失敗した日本軍はさらに追撃を開始した。
徐州に主力が集まっているとの情報を受けて日本軍は徐州へ向かう。ここでも素早い退却により国民党軍は殲滅を免れる。またこの時に中国軍機が九州へ、ビラ撒いている。
蒋介石は軍の敗退は内部にスパイが居る為だと疑い、少しでも日本軍の事を喋っている者を多数処刑している。また、日本軍の進撃速度を遅らせる為に黄河の堤防を破壊する作戦が開始した。結果日本軍の進撃は止まったものの、自国民数十万人を犠牲にした。中華民国は日本軍の仕業として非難した。
日本は中国の要衝である武漢を占領して重慶政府に圧力を掛けようとした。行われた武漢作戦は中国で行われた作戦中最大規模であり、あの大陸打通作戦以上であった。作戦は成功するが結局殲滅には至らなかった。
1941年12月8日に中華民国は正式に日本に宣戦布告。日本政府は対米英戦争を含め「大東亜戦争」と呼称することを決めた。
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最終更新:2021/01/24(日) 05:00
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