支那派遣軍(しなはけんぐん)とは、大日本帝國陸軍最大の部隊である。
1937年8月に勃発した第二次上海事変により、中国国民党との本格的な戦闘(支那事変)が始まった。上海に駐留する日本軍守備隊約4000名と在留邦人を守るべく、内地の部隊を抽出して8月15日(9月11日とも)に上海派遣軍を新編。増援として逐次上海へと送った。8月31日、第1軍(元支那駐留軍)と新編された第2軍を統括した北支那方面軍を編成。最初の方面軍が誕生した。
10月、上海後方の杭州に第10軍が上陸。退路を断たれかけた国民党軍は慌てて首都南京へと撤退していった。2ヵ月後に発令された大陸命第7号により、上海派遣軍と第10軍を総括した中支那方面軍が新編。1938年2月に首都南京を陥落せしめた。そして中支那派遣軍に昇格し、総司令官には松井石根大将が据えられた。構成部隊は絶えず変化しており、資料も乏しい事から中支那派遣軍の仔細はあまり分かっていない。
中国大陸では華北を担当する北支那方面軍と、華中を担当する中支那派遣軍が活動していたが、1939年9月に発令された大陸命第362号により、二大方面軍を統括。陸軍最大の支那派遣軍が誕生した。司令部は南京。満州国を除く中国全土に対する政戦略の統括、敵重慶政府への工作促進などを目的としていた。
対米英戦争の足音が迫りつつある1941年8月12日、新編された第23軍が支那派遣軍に編入された。これはイギリスの拠点である香港の攻略を見越した配置であった。香港島と九龍半島は強固な要塞とトーチカ群に守られており、約1万2000の兵力が駐留。イギリス軍も半年は持久出来ると豪語していた。対する支那派遣軍は、砲兵の権威と言われる北島中将が率いる第23軍を投入。攻撃に備えて香港周辺を封鎖し、制空権を奪取した。
12月8日午前3時、第23師団第38師団1万5000名が九龍半島に突入。イギリス軍との戦闘が始まった。しかしいざ戦ってみると、敵トーチカ群は思いのほか脆弱だった(推定の4割程度)。偵察の第288連隊が独断専行とも言うべき突撃を行い、イギリス軍の防衛線を突破。後続部隊が次々に突入し、九龍半島はあっけなく陥落した。対岸に香港島を望む事になったが、そちらの防御力は九龍半島より強固だった。第1砲兵隊は12月15日、上陸に先駆けて香港島の沿岸要塞に2000発を撃ち込んだ。海軍の巡洋艦五十鈴と駆逐艦電、雷も投入され、海上から砲撃。空からは陸海軍の航空隊が襲い掛かり、イギリス軍の戦力を削いだ。そして12月18日、第38師団の三個連隊は三方向から上陸を開始。イギリス軍は各地に激しく抵抗し、九龍半島とは比較にならない防御力を見せてきた。勝利の兆候が見えない中、12月25日に突然ヤング提督とモルトビー少将が降伏の申し入れをしてきた。貯水池を日本軍に押さえられた事で、難民や将兵の水を確保できなくなったからだった。また香港市民が次々に街から脱出していった事も、イギリス軍を阻喪させていた。結果、香港はわずか17日で陥落した。支那派遣軍が南方作戦に関わったのは香港攻略だけで、以降は中国で国民党軍と戦い続けた。
1942年にビルマ方面軍がビルマの援蒋ルートを断った事により、国民党軍はアメリカの支援物資を殆ど受けられなくなった。それに伴って物資不足の士気低下に悩まされ、支那派遣軍は勝利を重ね続けた。漢口や岳州といった鉄道網の要衝を押さえていたため、補給面が(太平洋戦線と比べると)マシなだった点も快進撃の一助となっている。1943年頃には国民党軍の将軍18名、高級将校70名、兵士50万人が支那派遣軍に投降。あまりにも逃げ出す兵が多かったので、国民党軍が督戦隊を配備したほどだった。
太平洋方面で玉砕が相次ぐようになっても要地を着実に占領し続け、臨時首都のある重慶に向けてジリジリと迫っていた。しかし戦況悪化に伴って部隊の抽出が始まり、支那派遣軍の戦力は低下。苦しい戦いを強いられる。しかし制海権を奪われ、シーレーンの維持が難しくなってくるとインドシナ・中国南部・朝鮮半島の大陸輸送路が重視されるようになり、輸送路確保のため支那派遣軍に増援が送られる。その中には絶対国防圏内の島嶼へ送られるはずだった部隊も多分に含まれていて、少なからず太平洋方面の防衛計画に悪影響を与えている。
1944年4月17日より大陸打通作戦を開始、増援を得ていた支那派遣軍は総兵力100万に達していた。各地で国民党軍を撃破し、中国南部の鉄道と飛行場を占領した事で打通は成功。国民党軍の不甲斐なさと支那派遣軍の健在を思い知らされた連合軍は、中国大陸からの日本本土侵攻を諦め、太平洋方面から攻め上げる方針に切り替えた。中国沿岸の飛行場は支那派遣軍の支配下に収まったが、更に奥地の飛行場から連合軍機が飛来。せっかく確保した鉄道網も爆撃を受けて滞ってしまっていた。とはいえ戦況が絶望的な太平洋戦線と比べると支那方面は明るいニュースが多く、同年9月の大本営発表は約7割が支那戦線の動向を知らせるものだった。
敗色濃厚になった1945年に入っても支那派遣軍は敢闘を続け、1月15日に第104師団が広東省の恵州を占領。続けざまに海豊と陸豊を占領した。1月22日、大本営は支那派遣軍に対し敵の飛行場がある老河口と芷江への攻撃を命令。1月29日に指揮下の北支那方面軍と第6方面軍に実行を命じた。3月23日からウ号作戦が発令され、再び攻勢に転じた。4月1日にアメリカ軍が沖縄へ上陸した事により防衛体制の構築が重視され、5月28日に大本営は華南の占領地域から退却するよう命令。同地の部隊は国民党軍や連合軍の猛追撃を受けながら、南京や上海方面へと退却した。苦戦しながらも国民党軍を撃破し、6月末までに老河口飛行場の占領に成功。作戦は成功に終わったが、国民党軍の反撃も激しく後退を強いられた地区もあった。
終戦直前の1945年8月9日、ソ連が対日宣戦布告。大本営は支那派遣軍と関東軍に大陸命第1374号を発令し、全面的対ソ作戦の準備を命じる。8月11日、三代目総司令官の岡村寧次大将は「百万の精鋭健在のまま敗戦の重慶軍に無条件降伏するがごときは、いかなる場合でも絶対に承服しえざるところなり」と陸軍中央に送っており、降伏に反対していた。しかし天皇の聖断でポツダム宣言受諾が決まり、8月15日に降伏。支那派遣軍の戦いは一つの節目を迎えた。
8月15日のポツダム宣言受諾により戦争は終わったかのように見えた。しかし中国大陸では、侵攻してきたソ連軍が傍若無人に暴れ続け、戦闘を止める気配すら見せなかった。北支に駐留していた部隊は臣民と仲間を守るため、ソ連兵と干戈を交えた。また寝首を掻こうとする中国共産党軍も出現し、混迷を極める。8月22日、大本営は大陸命第1388号を発令。外地の軍に全面的に停戦するよう命じたが、今なおも敵の砲火にさらされている支那派遣軍のみ「局地的自衛の措置」を認めた。9月2日、天皇陛下が陸軍に命じる大陸命特第一号が発令。全陸軍に停戦及び武装解除を命じた。支那派遣軍の作戦行動も停止し、9月8日に国民党軍へ降伏。武装解除がなされた。戦死者は44万6500名に上った。
終戦後、支那派遣軍の将兵は上海に集結し、アメリカ軍が貸与したリバティ船や装甲巡洋艦八雲等によって復員。距離が近い事もあり、1946年6月に復員任務を完了させた。
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