文正の政変とは、文正元年(1466年)9月6日に室町幕府内の権力争いによって起こった事件で、伊勢貞親と季瓊真蘂が追放という結果に終わった。
室町幕府第八代将軍足利義政は父足利義教、或いは祖父足利義満の時代を理想として、将軍権力の回復に努力していた。
その一つとして、義満が幼少の足利義持に将軍職を譲って鹿苑寺から政務をとったことに倣い、自身も早期に将軍職を辞して、次代の将軍の後見人としての立場から政務を取ろうとしていた。ところが、義政と富子の子は早世しており、将軍職となり得る人物はいなかった。
そこで、寛正5年(1464年)11月25日に義政は、弟の天台宗浄土寺門跡義尋を還俗させて、義視と名乗らせた上で将軍後継者とした。この後、義政と富子の間に子供、後の義尚が生まれたが、これに対し、義政・義視の間では義尚成人後、義視から将軍職を譲るという約束、即ち義政→義視→義尚の順で将軍職に就任することが取り決められた。
これに反対したのが、政所執事伊勢貞親であった。貞親は義政の将軍権力を形成した側近集団の筆頭であった。また、貞親は義政、義尚の傳役も務めており、当時の幕府内部における権力は絶大であった。ところが、この両者以外が将軍職に就くことで貞親は自身の権力が減退することを恐れた。また、この頃、諸大名の権力削減を目指していた義政に対し、諸大名たちはその抑圧をかわそうと次期将軍たる義視に近づき始めており、義視が反義政勢力の核となり始めていたという理由もあった。貞親は細川氏や山名氏と親しくない大名と繋がり、将軍派ともいえる勢力を幕府内部に形成。義視の排除を狙った。
文正元年(1466年)9月5日、貞親は遂に義政に義視が将軍職を狙って謀反を起こそうとしていると讒言した。
だが、その夜に身の危険を感じた義視が山名邸、次いで細川邸に逃げ込み、両者に助力を請うた。翌6日には山名氏、細川氏及び親山名、親細川の大名が揃って義政に対し貞親の罷免、殺害を要求。貞親や貞親と親しかった斯波義敏、赤松政則、季瓊真蘂が京都から逃亡。
政変はこれで収まったが、将軍義政は側近勢力の中核であった伊勢貞親を失ったことで、その権力基盤が崩壊。幕府政治に対する政治力を失い、この後幕府内部で表面化した細川派対山名派の政争に関して指導力を失う。そして畠山氏の家督争いに介入できず、やがて上御霊社において戦いが起こり、応仁の乱へと繋がっていく。
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最終更新:2024/04/24(水) 08:00
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