新しさに訴える論証 単語

アタラシサニウッタエルロンショウ

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新しさに訴える論証とは詭弁の一つである。対になる詭弁として伝統に訴える論証がある。ただし、出典がはっきりしない言葉でもある。

概要

未来志向であるなどを理由に自身のを認めさせようとする、論理上における詭弁の一つである。新しいからと言って考え方や思想や状態が正しいとは限らないということである。

背景

新しい理論概念というものは、古いものの問題点を踏まえてそれを修正したものであるから、古い理論概念よりも正しく優れたものであることが多い。この「新しいものは古いものより正しいことが多い」を「新しいものが無条件に正しい」にすり替えたものが、新しさに訴える論証である。

実際には、新しい概念により発生する問題にまだ直面していないだけの可能性が微粒子レベルで存在している

伝統に訴える論証

新しさに訴える論証とは逆の発想をしたものに伝統に訴える論証がある。

古くから続いているものは、歴史の荒波による淘汰を勝ち抜いてきたものであり、ぽっと出の新しい理論よりも高い信頼性がある。この「伝統あるものには信頼性があり正しいことが多い」を、「伝統あるものは無条件に正しい」にすり替えるものが伝統に訴える論証である。

実際には、旧態依然とした発想により生じる問題から現実逃避しているだけの可性が(ry

論点

パラダイムシフトのような新旧の概念の対立があるときに、対立する論点の絞り込みを行わずに一足飛びに結論に飛びつくような議論になることが多い。こういった時は新旧のの概念がどういった論点で対立しているのかまで立ち返って検討しないと解決に至らないのではと思われる。

現実の対立はそれよりも低次元の問題で、対立する新しい概念確立されたわけでもないのに単に年数が経ったことを理由に「古いから間違っている」としたり、後日流になる考え方であったにもかかわらず「みんなが伝統的にしている考え方と違うから間違っている」と、単なるレッテル貼りに用いられたりすることもしくない。

曖昧な出典

英語由来?

ところで、この「新しさに訴える論証」という言葉は英語の「appeal to novelty」からの訳であるようで、他に「Appeal to the New」「Newer is Better」などと表現されたり、またラテン語の「argumentum ad novitatem」で記されることもあるようだ。

こういった説明からは、まるで正式な論理学や修辞学の用であるかのように聴こえるかもしれない。だが、どうもこの言葉は明確な出典が不明であり、またさほど学術的に正式な言葉というわけでもないようだ。

Wikipediaでは

Wikipedia英語版の「Appeal to novelty」の記事exit2003年に作成されているのだが、2022年6月4日現在に至るまで、このWikipedia記事には一切の出典が示されていないという状態にある。出典を重視するWikipediaにおいてはこれはやや妙なことである。

また、この英語版記事以外にも別の言版のWikipedia記事が19言で作成されているのだが、なんとそれら全ての記事において根本的な出典は示されていない。多くの記事は全く出典を示しておらず、少数の言版の記事はいくつか出典を示しているが「ウェブサイト」「講義資料」といったあまり出典として質が高いとは言い難いものである。しかもそれらのウェブサイトや講義資料などは更なる出典を示していない。つまりWikipediaだけでみれば、「全世界的に広まっているのに根本的な出典が全く示されていない言葉」ということになる。(2022年6月4日現在時点)

Google Booksとかで遡る

Google Books「"appeal to novelty" "fallacy"」をキーワードとして書籍での古めの使用例を調べるexitと、1988年出版の『The Student's Guide to Philosophy』という書籍(タイトルからすると学生向け哲学入門書か?)内で、その他の誤謬に並列する形で「appeal to novelty」について記されてはいるようだ。ただしこれにもプレビューできる範囲で見る限り、出典は示されていないよう。

appeal to celebrity status, appeal to what "everyone thinks," appeal to occult forces, appeal to astrological conditions, appeal to novelty or tradition[1]

この「新しさに訴える論証」という概念子は「新しいと言うだけで正しいとは限らないだろう」という、「特に深くもなんともない当たり前のこと」を言っているだけである。よっていつが思いついてもおかしくない概念ではあり、明確な出典も定めにくいのかもしれない。類似の事を言っている古い例は探ればきりがなく出てきそうではある。

例えばイギリス哲学フランシスベーコンによる1620年の哲学書『ノヴム・オルガヌム』(原題はラテン語『Novum Organum』)内で、いわゆる「洞窟のイドラ」の一種として類似の概念られている。

Reperiuntur ingenia alia in admirationem antiquitatis, alia in amorem et amplexum novitatis effusa; pauca vero ejus temperamenti sunt, ut modum tenere possint, quin aut quae recte posita sunt ab antiquis convellant, aut ea contemnant quae recte afferuntur a novis.[2]

例えば

「この新しい政策は素晴らしい!」

と評価する人が、そう高評価する理由を問われて回答した内容の子が

「なぜなら新しいからだ!」

と要約できるものだったときなどは、この詭弁に陥っていると言えるかもしれない。要するに「新しいからよいもの」「新しいから正しい」とは限らないということである。

懐古厨

「古い」という以外に批判根拠がない「老害認定」や「懐古厨認定」も、一種の「新しさに訴える論証」と言えるかもしれない。

例えば「新しい何か」を支持しない人に対して、支持する側の人が

「この新しい○○を支持しないなんて、老害懐古厨だな!」

などと「新しい」ことだけを理由として批判していた場合は、この詭弁に陥っているとも言える。

ただし

「なぜならこの新しい○○にはこういった大きな利点・メリットがあり、対して支持しない人々が挙げる難点・デメリットはその大きな利点・メリット較してこんなにも小さいのだ。だから支持しないあなたは老害懐古厨だ」

と具体的に示しているならば、論点とすべきはその具体的なの妥当性、あるいは「老害」「懐古厨」といった蔑称を使うことの是非などであり、「新しさに訴える論証」の問題ではなくなる。

江戸時代の政治家 〜田沼意次と松平定信

田や沼や汚れた御代をめて、清らかにする白河

白河の清きにの住みかねて、もとの濁りの田沼しき

どちらも江戸時代日本の庶民の間で流行した「狂歌(皮風刺、ペーソスをこめた短歌形式の短文)」である。新しさや清廉なイメージを期待していたのをあとになって悔いる様子が分かる。なんという手のひら返し

関連項目

脚注

  1. *The Student's Guide to Philosophy - Peter A. Facione - Google ブックスexit
  2. *Novum Organum/Liber Primus - Wikisourceexit
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